怪奇現象に苛まれる学生アルフレッドくんのお話。
作中どちらの名前も出てきませんが、アルアサです!
アルフレッドくんがアーサーさんを腕力で無理強いする場面があります。
ワンドロ用に投稿したものにがっつり加筆しています。
あ、まただ。

きぃんと耳鳴りが始まって、肩がずんと重くなった。心なしか狭くなった視界の端に、黒い影がちらつく。俺は姿勢を正して胸いっぱいに空気を吸い込み、息を止めて、ぐるりと周囲を見回した。
誰も居ない放課後の廊下。日が陰り始めていて薄暗いけれど、まだ明かりを点けるほどでもない。何の変哲もない、見慣れた校舎。ブラスバンド部の練習する音が遠くに聞こえる。
このところ、俺は度々こういう症状に陥っていた。気配を感じて、影らしきものが見える。それなのに、確認しても誰も居ない。 たとえば、一人で自分の部屋に居るとき。ドアのすぐ外で誰かがささめいているような気配がして、だけど聞き耳を立てるともう聞こえない。ドアを開けても誰もいない。 たとえば、授業中。ぼんやり黒板を眺めていると、廊下の窓からこちらを伺うような人影を視界の端に感じる。視線を向けると誰もいない。

聞こうとすると聞こえないし、見ようとすると見えなくなる。
なんだっていうんだ。ため息をついて、正面に向き直ろうとした、ら。視界の隅、思いがけず近い距離に、金髪の痩せた男がこちらを向いて立っていた。あっと思ったときには視線が外れ、俺の顔は既に正面へ向き直っていて、確認するためにはもう一度振り返らなくてはならない。影が、こんなにはっきりと人のかたちとして認識できたのは、初めてのことだった。

誰だ?さっき確認したとき、あんな奴いたっけ?
俺は急に怖くなって、早足でその場を立ち去った。


その後も、この妙な症状は続いた。耳鳴りに、視界の端でちらつく黒い影。それから、金髪の男。あれから、彼だけがはっきりと像を結ぶようになった。視線をさだめて「見つめる」ことは出来ないけれど、視界の端に捉えたときに「あ、彼だ」と認識するくらいには。
症状が発症するのは時と場所を選ばず、しかも頻度はどんどんと増していた。浴室で髪を洗っているとき、誰もいないはずの浴槽から彼の首がこちらを向いているような気がしたときには、驚いて二度見してしまい、泡が目に沁みて大変だった。歯磨きをしていると、洗面台の鏡の向こうをすっと彼が横切ったような気がして、振り返ってしまう。自宅でも、学校でも、俺の日常に、彼の気配が現れ、掴む間もなく消えてゆく。
こうしてしばらくヘンテコな症状に襲われながらも、わかったのは、耳鳴りやちらつく黒い影と、金髪の彼は似て非なる別現象ではないかということ。耳鳴りがして影がちらつくときは、心なしか身体まで重くだるくなるのに、彼を単体で目撃したときは俺の身体に変化は起こらない。最初はぎょっとしたけれど、「人」の姿をしているせいか、慣れてしまうと特に恐怖は感じなくなった。むしろ正面から顔を見てみたいな、なんて気がするくらいだ。それから、不思議なことに、耳鳴りや黒い影を見て体調が悪くなっても、金髪の男が現れるとその不調が治まる。ような気がしている。このあたりは、もともと体調に不調を感じること自体あんまりないこともあって、自分の感度にちょっと自信がないので、感覚値、といったところだ。

あとは、あんまり認めたくはないけれど、これはいわゆる「非科学的な」現象ではないかと思い始めている。ときに能天気と揶揄される俺だって、そろそろオバケ的な何かの仕業なんじゃないかって。悪霊とか、そういったものに取り付かれでもしたんだろうか。 やめてくれよ、ゴーストは苦手なんだ。物理的な力で対抗できない奴とケンカなんかしたくないんだぞ。


ある晩。
俺はぽっかりと目を覚ました。枕もとのデジタル時計を見ると、夜明けまでまだ数時間ある。寝なおそう。寝返りを打って目を閉じるけれど、寝起きとは思えないほどの冴え方ですぐに眠れる気がしない。やがて、くるぞくるぞ、という根拠のない予感がして、俺は急いで頭まですっぽりと毛布を引き上げた。予感は足元からするすると移動して、俺の顔の辺りで止まった。真上から、誰かが、ベッドを覗き込んでいる気配がする。熱が篭る布団の中で、俺は息を止め、音と気配を探った。首の辺りからどっと汗が噴き出す。
息遣いさえも聞こえそうなほど近くに、何かが、いる。
心臓が早鐘のように打ち始め、パニックにおちいった俺、は。
とっさに真上にいた「何か」を掴んで、ベッドの中に引きずり込んだ。掴んだ「何か」は感触から判断すると人間の手首で、強く握りこんだ俺の手のひらがぐるりと回って指が余るほどの細いものだった。
人間の、手首。「何か」が「人間」だと理解した瞬間、俺は強烈な性欲に襲われた。

ふれられる、と、いうことは。そういうことが、できるということだ。

興奮で我を忘れるなんて、初めての体験だった。俺に押さえ込まれ、身を守るように縮こまっていた影は、弱弱しく抵抗と思しき動作をしたが、奇妙なことに、一言もその声を漏らさなかった。そして、暗闇でもわかるほどのきれいな金色の髪を持っていた。やっぱりそうだ。あの男だ。

レイプなんて、自分がそんな唾棄すべき行為をできる人間だったなんて、知らなかった。
ただ、熱くて熱くて、仕方なかった。
あっという間だった。お互いの、必要な場所だけを剥き出しにして、あとは力尽くで成し遂げるだけだった。
金髪の男は抵抗をやめ、俺にされるがまま揺さぶられていた。

今思い返しても、あの時は何かに操られていたような気さえする。
暴れまわる本能に意識を朦朧とさせたまま、俺は彼を犯した。
そのとき俺が感じていたのは、恐怖でも、罪悪感でもなく、目がくらみそうな快感と歓喜だけだった。


次に目が覚めると、窓の外から灰色に濁った光が射していた。今日の天気は、曇り。ベッドに昨晩の痕跡は跡形もなく、妙な疲労感だけが残っている。真夜中のあれは、夢だったのだろうか。夢だったのかもしれない。

たとえ俺の身体が昨日とは変わってしまっていようが、そのせいで気分が晴れなかろうが、地球はいつもと同じようにまわっていて、当然学校だって俺のために休みになってくれたりはしない。通勤通学客でごった返す朝の駅。いつものホームで電車を待っていると、また例の耳鳴りが始まった。雑踏の中、こちらを伺う黒い影が 視界の端にちらついて…まばたきのたびに、どんどんと近づいてくる。俺は思わず影がいた場所を見るが、そこには例の如く何もなく、結果、きょろきょろと視線をさまよわせることになった。耳鳴りがうるさい。背後で、たくさんの人がなにかを話し合うようにささめいている。聞こうとすると聞こえないし、見ようとすると見えなくなる。なんだっていうんだ!
ふと、肩に触れる、手のひらを感じた。振り返る。

そこには、青白く骨ばった手があった。蝋細工のように無表情で、生命力を感じない手。けれど、しわや毛穴といったディティールから、人形やおもちゃなどではなく、本物の人間の手だということがわかる。そのちぐはぐ感は、瞬時にそれが死んだ人間の手だと連想してしまうほど強烈な違和感を放っていた。手首の先を見ようとしても、身体のあるはずのところまで、どうやっても視線が動かない。 見ようとしても、見えない。爪が、噛み千切ったように深くえぐれて、ぎざぎざしている。手の甲に筋が浮き出るほど力が入っている指は大きく開かれて、俺の肩に食い込んでいた。その手に掴まれ、俺は人ごみから押し出された。肩越しを振り返る間抜けな体勢のまま、ホームの端に突き出される。電車が、来る。殺される。

そのとき、閃光が放たれ、優しい金色に視界がふさがれた。初夏の草原のような風を感じて、正面に向き直ると、両腕を広げて立つ金髪の男が見えた。ホームの端で、彼は俺をハグで受け止めた。俺の頭を優しく抱え込み、一言。

うせろ !

強い声が頭の中に響き、彼ごと俺を押し出そうとしていた青白い手首は、まばたきのうちに消え去った。
助かっ、た?

正面から抱き合うような体勢になってしまった男の肩に手を置いて、その顔を覗き込む。ハレーションが起きているみたいに眩しくて、よく見えなかった。男は、俺に何かを言おうとしていた。声が聞こえない。俺は、彼の唇を見つめて、その動きを読んだ。


 お れ が お ま え を ま も っ て や る


電車がホームに滑り込む轟音で我に返った。
俺は男とハグなんかしていなかったし、ホームの端に突き出されてもいなかった。
今のはなんだったんだろう。白昼夢だったのかな。確かに見たはずなのに、やっぱり、男の顔は思い出せない。

憶えているのは、おぞましい手首を追い払ってくれた力強い声と、金色の髪がかかる白い額。あと、なぜか眉毛。
それから、若葉のように瑞々しい、彼の緑の瞳だけだった 。


この手首の一件を境に、 耳鳴りや、黒い影がちらつくあの忌々しい症状はすっかり治ってしまい、オバケ的な何かとは一切無縁の生活を送っている。だけど俺は、今もまだ、金髪の彼の気配を視界の端で感じることができる。
ソファでくつろいでいるときの肩先。映画館でポップコーンを探る指先。確かにぬくもりが触れて、そしてすっと離れていく。

俺はあれから、いつも食事を一口分だけ残すことにしている。
手首の一件のお礼のつもりで始めて、もったいないから、数回で辞めてしまうつもりだったけれど、母親曰く、俺は毎食「残さずきれいに食べている」らしい。つまりは、そういうことなんだろう。俺のささやかなお供えは、彼に届いているのだと信じることにした。

ひとりで眠っているベッドの中で、ふと他人の気配を感じる夜がある。そんなときはその気配を引き寄せて、大事に大事に抱いている。彼は、最初の狼藉を許してくれただろうか。許して欲しい。気持ちを込めて、俺はできる限り優しく彼をほどいていく。

彼の肌に触れるとき、俺は草原を吹き抜ける風を感じる。待ちわびた人がようやく訪れてくれたような、懐かしい感じがする。ひとりぼっちの荒野の大地で、もう長いこと彼を待っていたような、泣きたいような、気持ちになる。
そんな経験、俺にはないのに。

聞こうとすると、聞き取れない。 見ようとすれば、見えなくなる。彼のそれは、相変わらず。
顔や体を構成するパーツであれば、見つめることができる。結構しっかり見てるから、もう憶えてしまっているくらいなのに、全体を見たことがないから、それらのパーツは決して正しい配列に並ばず、したがって俺は今でも彼の顔を知らない。
それでも、 全体を見つめることができなくても、視線で拾うことのできるパーツの一つ一つが、不思議と俺を昂ぶらせた。 乳白色の肌に浮かぶ玉の汗や、薄桃色の小さく尖った乳首、喉仏が浮かぶ筋張った首、短く固めの毛が密集した個性的な眉毛とか。見えなくたって、聞こえなくたって、彼に触れることはできるのだから、つまりは、そういうことだってできてしまうわけだ。

おそらく、人は俺をおかしいと言うんだろう。俺自身、普通じゃないなって思うことがある。
だけど、そんなのどうだっていいじゃないか。
見えなくても、彼はここに居る。聞こえなくても、 通じる気持ちがここにある。
俺にはそれで充分だし、それだけが真実だった。

名前も知らない、愛しい影。
確かに彼は、献身的な、俺の恋人だった。
Home
2017/04/23

TOP