原作小説三巻で、うつしよ出張中の大旦那様が鈴蘭さんに会いに行った時のお話。
夕暮れ時に思い出す
カラコロと、下駄を鳴らした帰り道
史郎様と、兄さんと
手を繋いでお家に帰る

史郎様の、長く伸びた影法師
私も兄さんもお側にいるのに、
影法師の史郎様は一人ぼっち

それがなんだか悲しくて、私は史郎様と繋いだ手に力を入れて、
離れないようにとぎゅっと握った
史郎様はそんな私を見下ろして、優しく頭を撫でてくれた

温かく、乾いた手のひら
三人並んだ帰り道

史郎様と、兄さんと



その時私は蜘蛛の姿で、赤く染まる夕暮れの空を眺めていた。
季節は、夏。
灼熱の太陽と蝉の大合唱に飾られた昼の賑やかさを黄昏にしまって、幾分涼しく、静かになる時間帯。吹く風が墓地に植えられた桜の葉を擽り、私が伝っている糸をも揺らし、さやさやと心地良い音を奏でている。

ふと、ひんやりとした重たい空気がじわじわと地面を覆っていることに気が付き、視線を下ろすと、史郎様のお墓に近付く人影をみつけた。こんな時間にお墓参りかしら?不思議に思って、蜘蛛の眼でじっと見つめる。
夕日に照らされた、黒い背広。喪服姿の、若い男性?
あれは…

「お久しぶりでございます、天神屋の大旦那様」
その方をお迎えするために、私はすぐに人の姿になって長く深いお辞儀をした。

角と瞳の色を隠して人間に化け、見慣れない洋装姿ではあるけれど、その重く落ち着き冴え渡った霊力や、今となっては少し懐かしい異界の雰囲気は間違えようもなく。

「やあ鈴蘭、元気そうだね」
変わらない、低く優しい声で言って下さったので、
「はい!」
再会の嬉しさに、私は子供のような笑みがこぼれたのだった。

「現世にいらしていたのですね!今日は史郎様のお墓参りに?もしかして、葵さんもご一緒ですか?」
嬉しくてつい問いを重ねてしまう私に、
「いや…僕ひとりだよ」
大旦那様は苦笑しながらもひとつひとつに答えて下さった。
「現世にはいつもの出張で来ていてね。今日は君の様子を見にきたんだ、鈴蘭。元気にしているかと思って。現世の生き難さは、葵も心配していたからな」

「そうでしたか」
答えながら、私は葵さんのことを思い出して、優しい気持ちになっていた。
葵さん。大好きだった、史郎様のお孫様。史郎様に似たお顔立ちと霊力を持っていて、彼女もまた、私たち蜘蛛の兄妹を、その絆を救おうと、とても親切にして下さった。
ひたむきで、まっすぐな瞳をもった、綺麗で可愛らしい方。

「葵さんは今どうしていますか?あっ、もしかして、もう大旦那様の奥様に?」
葵さんはそうなるべくしてかくりよに渡ったのに、私ったら今更なにを、と、自らの迂闊な発言を戒めるように口元に指先を添えていると、
「いやいや。やはり史郎の孫だけあって、なかなか一筋縄ではいかなくてね」
大旦那様はやれやれと苦笑して、だけどどこか楽しそうに、言葉をつなげた。
「葵は結局史郎の借金を自分が返済するという意思を曲げず、天神屋の離れで小料理屋を開いてね。最近は一生懸命店を切り盛りしているよ」

「まあ。なんだか、葵さんらしいですね」
葵さんとはまだ出会って間もなく、その上今は離れ離れに暮らしてはいるけれど、私にはそれがとても葵さんらしい選択だと感じられた。
誰に倣うこともなく、ご自分だけの道を切り拓いて進む姿は、史郎様にとても似ている。

その後も、優しい表情を浮かべたまま、葵さんのことや、兄さんのこと、天神屋の皆様のこと、最近のかくりよの出来事などをお話しして下さった大旦那様だったが、話題が途切れると、ふと表情を消して、史郎様のお墓に向き直った。

周囲に史郎様の霊力を漂わせつつも、そこに史郎様はいらっしゃらない。片面を沈みかけの太陽に照らされた、石の塊。大旦那様は、史郎様のお名前が刻まれたそれを、何もおっしゃらずにただじっと見つめている。

お召しの洋装は、大旦那様のお体に沿った作りで、真っ直ぐに堂々とお立ちになった姿の均整がとれた様子やお背の高さを、暮れなずむ夜の入り口に浮かび上がらせていた。
足元には、長い影法師2つ。史郎様のお墓と、人間に化けている大旦那様と。

「史郎とも…葵を介していよいよ身内か」
そう呟く大旦那様の表情は静かに凪いでいて、過去を愛おしむものでも懐かしむものでもなく、また、冷たくも温かくもなく。

「お参り、なさいますか?」
そっと問いかけると、大旦那様は、「いや…」と。視線は史郎様のお墓に定めたまま、短い否を返した。
「今はまだ、やめておくよ」

私などには推し量れるものではないけれど…だけど、たぶん、死によって分け隔てられた今でも、お二人の間には、まだ決着がついていない何かがあるのだろう。そしてそれは、もしかしたら、葵さんに関わる何かなのかもしれない。

私はそれ以上何も聞かず、お参りをするでもなくただ史郎様のお墓を見つめている大旦那様の傍に控えて、静かにお二人を見守っていたのだった。

別れ際。
「今度は葵も連れてこよう」
「ええ、是非」
この現世で、一人強く生きて行くと決めたけれど、懐かしい方々と次の約束があるのはやはり嬉しいこと。
にこにことしたままお見送りしようとしていた私に、
「そうだ。こんな別れ際になってしまってすまないが、僕は今浅草の宿で世話になっていてね。近くに評判のいい和菓子の店を紹介してもらったから、芋羊羹をお土産に持ってきたよ」
「まあ」
大旦那様は携えていた紙袋からお土産の菓子折を出して、私に渡して下さった。

それを受け取りかけ、けれどもふと思い立つことがあって、私は大旦那様を見上げてひとつの提案をする。
「これは、史郎様に供えてはいかがですか?」
「史郎に?え、いや、しかし…」
「大丈夫です。夜になったら、勿体無いので私が頂きます」
少し強引かしらとも思ったけれど、戸惑っている大旦那様のお手に菓子折をお返しし、思いを込めてお伝えする。

「お参りの代わりに、お気持ちだけでも、どうか史郎様に…」

大旦那様は一瞬目を見開いて、
「そうだな…」
そう言って、わずかに笑みをこぼし、お土産を史郎様のお墓に供えて下さった。

その様子に、思わず春の日の葵さんを重ねて…耐えきれず、私はふふっと笑ってしまった。
「?なんだい?」
「いえ、申し訳ありません…実は、全く同じことを申し上げたひとが居たのですよ」
「同じこと?はて、誰かな?」

大旦那様は不思議そうにしていらしたけれど、私はもうそれ以上言うつもりはなく、また、大旦那様も詳しく聞いてくることはなかった。


「それでは、またな」
寺の門の外まで出て、大旦那様のお見送りをする。
「はい、今日はありがとうございました」
深く深くお辞儀をして、かくりよの、大好きな方々がみな健やかに日々を過ごせますようにと祈りを捧げる。

顔を上げると、既に大旦那様のお姿はなく、日は沈み、薄紫色の闇がしっとりと辺りを覆い始めていた。
くるりと向きを変えて、下駄をカラコロ鳴らし、私はひとり、史郎様のお墓へと歩みを進める。

思い出すのは、夕暮れ時の、帰り道。
史郎様と、兄さんと。
ひとりぼっちの影法師。
繋いだ手。温かく、乾いた手のひら。

もう二度と戻らない日々を思うと、胸を震わせる切なさに、ときに涙がこぼれそうになるけれど、だからといって、今の私が幸せではないなんて、そんなことは決して思わない。
愛しい思い出を胸に抱き、大好きな史郎様のお墓を守り、日々強く生きている自分を、私は誇らしく思っているのだから。

大旦那様と葵さんのお二人が、揃ってお参りに訪れるその日まで。
現世で、ここで、史郎様のお墓を守って行こうと意気込んで、ぐっと拳を握りしめた。

ひとりぼっちの帰り道。
そんな私を、私の道を、月の光が優しく照らし出してくれていた。
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2018/11/22

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