原作小説1巻で、おじいちゃんが葵ちゃんに「鬼には気をつけろ」と言い聞かせていた理由を妄想したお話。
3月。

冬の気配も鳴りを潜め、午後の日差しは暖かく、魚町商店街へと続く道にもちらほらと春のほころびを感じる。
先ほど中学校の卒業式を終えたばかりの葵は、俺の隣に並んで歩きながら、明日から始まる春休みの予定について楽し気におしゃべりを続けている。
風にあおられる黒髪を指先で抑え、先端がほんのりと桃色に染まった耳にかける。
あらわになった耳から首筋にかけては、散らばる黒髪の隙間から白く輝くようなきめの細かさをうかがわせ、華奢な鎖骨につながって、その先を紺色の制服の中に隠していた。

十五歳。
葵はすっかり娘らしくなった。

俺に似た霊力を持ち、息子である杏太郎のように朗らかで、本当に良い娘に育ってくれたと思う。
本当に、よくぞ無事に、ここまで育ってくれたと思う。
あやかしが見える目のせいで、その身に高い霊力を持つせいで、幾度となく危ない目に遭遇してきた。
けれど、この子は生き延びている。今のところ、例の呪いの魔手が及ぶ気配もなく。


「おじいちゃん、聞いてる?」

物思いから引き戻される。
葵が首を傾けて、俺の顔を覗き込んでいた。
つやのあるまつ毛に縁どられた、澄んだ瞳が間近にあった。

「聞いてるよ。パンを作ってみたいって話だろう?やめとけ、パンなんて邪道だ」
「えええ~。なに時代錯誤なこと言ってるのよ。パンはどこにだって売ってるし、みんな当たり前に食べてるじゃない」

葵は唇を尖らせて、ぶうぶうと文句を垂れている。
また風が吹いて、拗ねる葵の髪をさらった。柔らかく舞う黒髪から、石鹸のような、花のような香りがして…その中に、少しだけ懐かしい、異質な霊力の匂いを感じた。
それは、よく知った、しかし決して自分と相容れることのない、人間とはかけ離れた、かくりよの大妖怪の霊力。

脳裏に思い浮かぶのは、幾度となく通ったかくりよの宿。その主。
混沌として底知れない、血よりも赤い瞳を持った男。
漆黒の羽織をまとう、黒髪の、鬼の姿。


俺はかつて、ひとつだけあいつに頼みごとをしたことがある。
それなりに長い付き合いであり、そこはかとなく通じるものを感じる相手でもあり、あやかしとはいえ、俺は心のどこかで大旦那に信頼を抱いていた。あいつが俺の頼みを引き受ける義理などないと知っていても、息子を失ったばかりで、俺は道理をわきまえてなどいられなかった。
葵を見捨てず、守ってほしい。
大旦那にはそれができると確信していた。

結果として、俺の孫娘は今も生きている。それはすなわち、あいつが俺の頼みを引き受けた結果なのだろうと思う。
どんな手段でこの子を救ってくれたのかは知らない。
けれど、時折葵から感じるあいつの霊力が、すべての証拠のように思う。

ならば俺も、約束を、果たさなければ。

葵は、いい嫁になるだろう。この俺が育てたのだ。間違いない。
順調に、「料理」の腕も上げている。それは、調理の過程に仕込んだ術式。食材の持つ霊力の波動に働きかけて、振幅を強め、より高めることができる。それが葵の「料理」の最大の特徴だ。
今、俺に日々美味い飯をこしらえてくれているように、葵はいずれ、かくりよであの鬼に料理を振る舞うことになるだろう。

葵には、たやすく飼い慣らせるような従順さはないが、代わりに、生き生きとして、素直で、無垢で、簡単には捕まえておけない、野を駆ける小動物のような、自由さと闊達さがある。何より美人だ。そんな葵に、葵の作る飯に、堅物の大旦那とはいえ絆されないはずはない。
あいつは葵を大切にするだろう。そして、大旦那は誠実な鬼だ。そんな大旦那と暮らせば、葵も、いずれきっと、あいつを愛するようになるだろう…。


魚町商店街を目の前にした、古い神社のもとまでたどり着き、俺は足を止めた。

「葵。あやかしに気を許してはいけないよ」
視線は、葵の向こう側。
赤鳥居の下に風が渦巻いているのをじっと見つめながら、声を低くして言い聞かせる。
「特に鬼には気を付けるんだ。あいつらは、欲しいものは何としてでも手に入れたがるし、自分の思い通りにならなければ気が済まない、人とは相容れないものだからな。決して、鬼には気を許してはいけないよ」

葵も足を止め、赤鳥居を背にしてゆっくりと俺を振り返る。
「もう。またその話?わかってるわよ、おじいちゃん」
口を酸っぱくして言い聞かせる年寄りの小言を煩がることもなく、仕方ないなというように受け止めて、
「でも私、鬼なんて一度も見たことないわよ?鬼って、本当にいるの?」
困ったように小首を傾げて、苦笑いで答えたのだった。

葵。
お前はいずれ、この世の誰よりも鬼を知る娘になるだろう。
残忍で、冷徹で、懐の深い鬼を。
本心を闇の彼方に沈め、ひとり静かに孤独を抱えた、鬼を。

俺はそれ以上言葉を返すことなく、愛しい孫娘に微笑みを向ける。
この話は、これで終いだ。

「葵、中学の卒業祝いに、晩飯は俺が中華をこしらえてやろう」
「わあ、おじいちゃんの中華、久しぶり!嬉しい!」

花が咲いたように笑った葵の肩を抱きながら、赤鳥居の下で渦巻く風に視線を流す。

大旦那よ。天神屋の鬼よ。
俺はお前との約束を決して忘れてなどいない。
葵はいずれ、お前の花嫁になる娘だ。
しかしそれは、今ではないだろう?
今の葵はまだ、俺の大事な、ただの人間の孫娘であって、お前の嫁ではない。
今のうちに鬼の悪し様を言い聞かせるくらい、無力なじじいの、かわいい仕返しじゃないか。
身内として、この子を嫁にやるのが惜しいと思う気持ちも、少しばかりは許してほしい。

お前の花嫁を俺から攫うのは、
どうかあともう少しだけ、待ってくれよ

葵の肩を抱いたまま、歩き出す。
赤鳥居の下にたたずむ黒い影を一瞥して、俺はべろりと舌を出したのだった。
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2018/10/28

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