原作小説二巻で、葵ちゃんが地下蔵から助け出された直後のお話。
すっかり衰弱した葵を抱えて天神丸に戻ったのは、夜半も過ぎた頃だった。
水滴が滴るほどずぶ濡れになった僕らを迎え、宙船に待機させていた者たちがざわめく中、僕は葵を抱えたまま、立ち止まることなく船内を進む。

「大旦那様…葵様!」
のっぺらぼうの三姉妹が急ぎやってきて、僕に抱えられぐったりと弛緩した葵を覗き込み、おろおろとしている。
「大丈夫、葵は生きているよ」
僕は、三姉妹を安心させるよう落ち着いた声音で、ただし足を止めることなく、告げる。
「とはいえ、随分と衰弱しているんだ。この船に医師は乗り合わせていないから、船頭には一刻も早く天神屋へ戻るよう告げてくれ」
「はい」
返事をし、お梅はすぐに管理室の方へ向かった。
「お前たちは、妖火を集めて僕の部屋を暖めておいてくれ。それから換えの着物と、湯薬の準備も頼む」
間をおかず、後ろをばたばたと着いてきていたお竹とお松にも指示を出す。
「かしこまりました」
今はとにかく、葵の体を温めなければ。

「大旦那様!葵さんは?!」
早速手配に向かってくれたのっぺらぼうたちを見送ったところで、今度は銀次が走り寄ってきた。
「市場の古い地下蔵に閉じ込められていた。保冷機能が作動していた上に雨水が注ぎ込んでいて、かなり体温を奪われたらしい」
「そんな…」
銀次は僕の説明に言葉を失い、葵を見下ろしたまま耳を寝かせて蒼白になっている。
「お前はこの件についてもう少し調べてくれ。捕らえた見習いダルマたちから顛末を聞き出せそうなら、頼む」
「御意」
葵の身に起こった出来事をまるで自分が受けた仕打ちのように苦しげに聞いていた銀次だったが、今は一切合切の感情を廃した事実確認が重要だと理解しているのだろう。一瞬の後には淡々とした表情になって、足早にこの場を去っていった。

廊下が水濡れになるのも構わず船内を闊歩し、僕は自分の部屋に辿り着いて、畳の上に葵を下ろした。
いつもはほんのりと桃色に色づき、溌剌とした生命力を漲らせている葵の肌は、今は紙のように白く、冷たい水を纏っている。

少しだけ迷った後、僕は葵の濡れた着物を脱がせ、自分も着物を脱いだ。お互い肌着姿になって、向かい合うように彼女を抱いて、のっぺらぼうに用意させた布団に横たわる。
それから、じわじわと加減を調節しながら、身の回りに鬼火を呼んだ。
これでじきに葵の髪と体は乾くだろう。

意識を失って、ぐったりと腕の中に収まる葵を見下ろす。その体はあやかしの自分にとっても冷たく感じられるほど冷えていて、僕は言い表せない不安に襲われた。縋るように強く彼女を抱きしめる。
冷静さを装ってはいたが、生きた心地がしないとはこういう心理状態のことなのだと、先ほどから僕は心臓が痛む程に実感していた。

花嫁として葵をかくりよに攫ったころ僕は、恋とは、段階を踏んで緩やかに芽生え、花咲くものだと思っていた。それこそ、葵に贈った椿の簪が花開くように、徐々に育っていくものだと。
だからこそ、すぐに彼女と婚姻を結ぶつもりだったのだ。夫婦という型に収まってしまえば、いずれ穏やかな愛情が芽生えるのではないかと。そして、彼女に対して自分なりに愛情を捧げ続ければ、こんな僕でも、葵に受け入れて貰える日が来るかもしれない、と。

そんな僕の認識は、少しだけ甘かったようだ。
何故なら恋とは、段階を踏むような、いつでも引き返せるような、そんな甘やかなものではないから。もっと横暴で、始まってしまえばもう自分にはどうしようもない、不可逆なものなのだ。それが恋だと気付いた時には、知らなかった頃には戻れない。相手の出方を伺うような、小賢しい真似ができるものではないのだ。

身の内に湧き上がる、葵を失うかもしれないという恐怖や不安を抑え込み、腕の中の黒髪に、祈りのような口付けを落とす。

生きてくれ、死なないでくれ。
君を失わないためならば、僕はなんだってするから…

ふと顔を上げると、のっぺらぼうが用意しておいてくれた天神屋の湯薬が目に入った。
身を起こしてそれを手に取り、蓋を開ける。葵の傍らで片膝をつき、腕を彼女の肩に回して抱き起こした。意識のない弛緩した体は、頭部の重みに任せて仰け反り、白い喉を晒す。

細い首筋は、雷鳴に浮かんだ昨夜の葵を思い出させる。雷に怯えて僕の羽織を握りしめ、小さく震えていた。そんな彼女を見て、僕は改めて葵を守ってあげたいと思った。
今は、その時の気持ちとも少しだけ違う気がする。今の僕は、もっと身に迫るような、焼け付くような、焦燥と痛みを伴う感覚に襲われていた。

そんな感覚を断ち切るように強く目を閉じ、一気に湯薬を仰ぐ。自分の口に含んだ苦いそれを、真上から覆いかぶさるようにして、口移しで葵に与えた。

かつて僕は、この娘を愛しているのだろうかと、問い続けることを自分に課した。
そう問い続けることもまた、愛するということなのだと考えてもいた。
今の僕は、その問いに何と答えるだろう?
僕は、葵を。

本能の欲するまま柔らかい唇に吸い付けば、苦味の奥に甘さを感じ、舌先はそれを求めるように、勝手に葵の口の中へと潜り込みたがる。

こんな感情は、知らなかった。
完全に制御を失って、嵐の狼藉を受けた花びらのように僕の心は掻き乱されていた。

愛とは。恋とは。

僕は一人で、奈落の底から天を仰ぎ見る。
落ちてしまった僕にはもう、葵が同じ場所まで落ちてきてくれることを、ただ祈るしかできないのだった。
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2018/11/11

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