入江くんがお見合いをした時期が舞台のお話。
入江くんの一人Hを題材にしています。閲覧は自己責任でスクロールして下さい。
直樹がそれを行うのは、日曜の夜、バスルームの中と決めていた。

数年前の、第二次性徴の発現とともに加わった習慣。
頭からシャワーをかぶり、タイルの床を叩く水滴の音に耳を澄ませて感覚を研ぎ澄ませる。
右手が施す単調な刺激と少しのイマジネーション。それから、快感に没頭する集中力。
慣れたリズムに乗って動かす右手はいつの間にかスピードを上げ、口を開けて息を乱しながら頂点を目指す。
もう少し。あと少し。

「…っ!」

数回にわたって先端から放たれた体液は、あっという間に排水溝へ流れていった。
ゆるゆると扱く手を緩め、呼吸を整える。
残滓がないことを確かめながらシャワーの水圧で壁や床を洗い流した直樹は、頭が冷えるにつれ湧き上がる苦々しい思いに溜め息を吐いた。

その日もまた、果てる瞬間思い浮かんだのは、素っ裸の琴子の姿だった。

仰け反る白い喉、薄く桃色に染まる耳朶、控えめな胸の膨らみ、小さく尖ったその頂き。
一度も実物を見たことがないくせに、それらは妙に生々しく直樹の脳裏で再現された。

直樹が苦々しく思ってしまう理由はこれだ。
よりによって、琴子。

他の女ではなく琴子の裸を想像してしまうのは、単に彼女が最も身近な女だからだ。
直樹は今日もそうやって自分自身に言い訳をする。
生活を共にしているせいで、風呂上りや寝起きなど、無防備な姿が否が応にも目に付くのだ。
想像力を補うピースを、琴子は他の女よりも多く持っている。ただそれだけ。

使い古した言い訳で、今日も思考をシャットダウンする。
胸の中に居座っている何かに気づかない振りをして、バスルームを後にした。


そんな風にして、直樹は何年も自分の気持ちをごまかし続けている。



◆◇◆◇◆◇◆



倒れた父親に代わり会社へ通う日々。
折りいった話がしたいという部長に誘われ、喫茶店の席に着いた。

「この間、北英社の大泉会長に会ったろ」
「ええ。それが何か」
「いやー、会長、君の事えらく気に入ったようでねぇ、昨日わたしに電話があったんだが」

「会長のお孫さんと、見合いしてみる気はないかな」



ひと気のなくなった会議室で、直樹は一人、その日のことを思い出していた。

経営困難に対する不安を抱え、保証はあるのか、責任はとれるのかと直樹に訴えた社員たち。
それを諫める上役を抑えて、対策は考えている、この会社はつぶさないと宣言した。
先ほどの会議での出来事だ。

経営状況は深刻だ。長期的な対策を立てようにも、もう資金繰りが間に合いそうにない。
短期間のうちに売り上げを回復させなければ。もしくは、対策を講じる時間を稼ぐだけの資金があれば。
会社にとって好都合な縁談。北英社からの援助があれば、この状況を持ち直せるかもしれない。

一人残った会議室で、直樹は机に肘をついて組んだ指先に瞼を押し当てた。
途轍もない疲労を感じて、深いため息がこぼれる。

結婚は好きな人としなさいと言った父のこと。
見合いの話を聞いただけで怒り狂った母のこと。
それから、琴子のこと…。

思考が琴子にたどり着けば、自宅のリビングで琴子に慰められた夜が想起された。
初めて持った夢を棄てた日。背後から直樹を抱きしめ、泣いてくれた琴子。
薄いパジャマの生地を通して伝わる琴子のぬくもり。震えた吐息。髪から漂う甘い匂い。


大切なものたちは、それが大切だと認める前に、指の間をすり抜けていったような気がした。
医者になる夢も、結婚も。
想定通りに物事が進まないのは直樹にとって生まれて初めてのことだった。
こんなに苦しいのは、思い通りにできない悔しさのせいなのか。
この胸を押しつぶしているのは、怒りなのか、哀しみなのか。

しかしながら、こんな気持ちもじきに克服できると直樹は思っている。
自分をコントロールできなかったことなど、彼は一度もなかったから。



◆◇◆◇◆◇◆



見合いの席は散々だった。
紀子による甚だしい嫌味の数々。あまりの非礼さに呆れて相手を誘って逃げ出した庭には、清掃員の格好をした琴子となぜか松本裕子が忍び込んでいた。
子どもじみた嫌がらせ。それでも見合い相手は直樹に好印象をいだいているようだった。

数日前の会社でのこと。
直樹が資料室を出たところで、すぐ近くのエレベーターに琴子が乗り込むのが見えた。
同乗するつもりで軽く足を速めたが、それよりも先に「待ってください」とひとりの女性が駆け込んだ。
琴子はのんきな声で「はーい」と答えたくせに、ドアは閉まって女性が挟まれそうになったので、とっさに腕を伸ばし閉じるドアを手で抑えた。
直樹にとって、琴子の失敗をフォローするのはいつものことだったから、女性に対して親切をしたつもりなんてなかった。
その時の女性が見合い相手で、直樹に対する好印象は、このときの出来事が起因しているのだと見合いの席で仄めかされた。

池に落ちて風邪を引き、ひどいことを企んで罰が当たったと落ち込んでいた琴子。
見合い相手からの電話を取り次いで、不安そうにチラチラと直樹の様子をうかがっていた琴子。

大泉会長に興味を持たれたのも、見合い相手に気に入られたのも。
自分がきっかけになったなんて、ひとつも解っちゃいないんだろうな。

ばかなやつ。

琴子と一緒に築いてきたものを琴子本人の手で台無しにされたような、哀しみを帯びた苛立ちが湧き上がる。
見合い相手との電話を終えた直樹は、デートをするのかと気にする琴子にその苛立ちをぶつけて挑発した。
顔を赤くして癇癪をおこした琴子を更に冷たく突き放す。

「おまえも早く男見つけな」

いつか、引導を渡す日が来るとは思っていた。
琴子が望むままに好きと言わせていても、それなりに琴子を身近に感じていても。
直樹が琴子に同じ想いを返すつもりがないのなら、最終宣告を下すのは当然の帰結だ。
見合いを受けて、その話を進めることにした。
直樹は、琴子の想いを受け入れないと決めた。だから、引導を渡した。

その日がたまたま、今日になっただけだ。



◆◇◆◇◆◇◆



どんな時も直樹は習慣を欠かさない。
自分で決めたルーチンを片付けながら淡々と日々をこなしていくのは得意だ。

複雑に見える問題も、解決するための道筋をいくつかシミュレーションし、もっとも効率的な方法を選び、手順さえ決めてしまえば、あとはその通りに進めればいいだけだ。
他の人間が自分と同じようにできないのは、効率的な方法を選び損ねて何度もやり直す羽目になったり、集中力がなくて途中で別の事柄に気が散ってしまったり、シミュレーションが不充分だったせいで予定外の出来事に振り回されたりするからであって、そういった些事によるロスを省けば、つまり、時間をかけて集中すればそれなりにできる人間は多いということを、直樹は琴子を通して知った。
これを知ったことで、他人をバカだと無闇に切り捨てることをしなくなった。
自分と同じようにできない人間に対して苛立ちを覚えることも少なくなったし、おかげで人と関わることも以前よりは苦痛でなくなった。

直樹の今の生活には、こんなところにまで琴子の存在が感じ取れてしまう。

日曜の夜のバスルーム。
シャワーをかぶる直樹は右手をゆるく動かしながら、そんなことを考えていた。
集中していないせいで、中途半端に勃ちあがったそこにはじんわりとした心地良さはあるものの、達する程の快感の波に乗り切れない。

見合い相手が電話で約束を取り付けたクラシックコンサート。
最初のデートは、可もなく不可もなく、といった印象だった。
失敗はひとつもしていないと思う。
相手はそれなりにいい気分になったんじゃないかな。
それくらいのリップサービスはできたと思う。

一日の所感を述べるとしたら、となりにいたのは琴子じゃない女だった、ということ。
そこまで考えて、直樹はまた苦々しい気分になった。

雑念を振り切るために、手元に意識を集中させる。
いつものリズム。

琴子のことを思い浮かべたっていいじゃないか。
だって、それは仕方のないこと。
見合いしたとはいえ、今もまだ最も身近にいる女は琴子なんだから。
琴子以外の女を、自分はそこまで知らないのだから。

その考えは、まるで免罪符のように後ろめたさを消失させる。
せわしなく手を動かしながら、直樹はいつになく積極的に琴子のことを思い浮かべた。

高校の謝恩会で、清里の森の中で、押し付けた柔らかな唇。その隙間から漏れる吐息。
そこにかぶりついて吸いついてみたい。
密閉された粘膜を抉じ開けて、琴子の口の中に舌を差し込んでみたい。
混ざり合う唾液に味は感じるのだろうか。
咥内はきっと温かく、絡まる舌はぬめっていて、濡れた自分の唇に琴子の熱い吐息が当たって…

スパイクのように、急激に頂点が訪れた。
一瞬息が詰まって、同時に体液が放出される。勢いを失いながら、2度、3度。
すべて終わった後も、直樹が吐き出した吐息は快感に震えていた。

箍を外したイマジネーションの中の琴子は、直樹を思わぬ快楽に導いた。
あっという間に果ててしまった。抗えないほど気持ちが良かった。
その代償のように、直後の苦々しさもいつもより更に倍増していた。

胸の中には相変わらず何かが居座っている気がしたけれど、やはり見ないふりをして、直樹はバスルームを後にした。
大きなため息をひとつ残して。



◆◇◆◇◆◇◆



見合い相手に誘われるまま、何度か繰り返したデート。
帰りのタクシーの中、疲労を感じた直樹はシートに深く身を沈め目を閉じた。

先方の反応は上々だ。
彼女の祖父にはこの話を進めたい意思を伝えた。
見合い相手本人からも、それは本当かと問われ、あなたを断る男はいないだろうと返した。
彼女は、直樹にだけ断られなければいいと、頬を染めて寄り添ってきた。

初々しく、いじらしい反応。
こういう時は、相手の肩を抱いて、優しく触れるだけのキスでもして、微笑みながら見つめ合うくらいしたほうが良いのだろうか。
いつも通り、瞬きほどの時間でシミュレーションを展開したけれど、直樹はそれを行動に移せなかった。
そうしたほうが相手を喜ばせ、自分の評価も上がるだろうと判断できたのに、一瞬の躊躇がタイミングを失わせて見合い相手を片腕に寄り添わせたまま二人は歩き出している。
今更肩を抱き寄せるのはスマートではないだろう。また次の一瞬でそう判断し、そしてその判断にほっと一安心する。

見合い相手と過ごしていると、こういうことが頻発する。
判断と行動が一致しない。
そうしたほうがいいとわかっているのに、その通りに振る舞えない。
わかっていても出来ないというのは、これほど自分を情けなく感じさせるものなのだな、と直樹は思う。
これまであまり感じたことのない感覚だった。

琴子には、思うがままに振る舞うことができた。
事前のシミュレーションさえもあまり必要なかったと思う。
たとえ苛立ちに任せてひどいことを言ったとしても、それが原因でケンカをしたとしても、琴子とは関係を修復できる自信があった。
その自信は、琴子は自分を許してくれるだろうという希望的観測だけではなく、関係修復を容易く放棄しないであろう自分自身に対する信頼でもあった。
琴子の笑顔を取り戻すために直樹は何かしら策を講じるだろうし、その策のいずれかは必ず実を結ぶはずだ。
いつぞやの琴子がいだいた、直樹と松本裕子の同棲疑惑で誤解を解いた時のように。

それならば、と、見合い相手に対しても琴子に対するように振る舞う自分を想像してみる。
泣くかもな。けれど、見合いの席で紀子の嫌味を躱していた様子を鑑みるに、意外と飄々と受け応えをするのかもしれない。
琴子のように何でもかんでも言葉の通り真に受けるほど単細胞ではないだろうし、口の悪さが原因で嫌われるなんてことはないのかもしれない。

ただし、ケンカになった場合はどうだろう。
見合い相手に対しては、自分は面倒くさいの一言で関係を切り捨ててしまうのではないか。
そこまで考えて、いやいや、と直樹は思考を修正した。
融資が必要で見合いをしたのだから、ケンカなんてしていいはずがない。
ケンカになる前に相手の機嫌を取るのが自分の仕事だ。

――仕事。
思い至ったその一言に再び重い疲労を感じる。

その時、内ポケットに入れていた直樹の電話が着信を告げて振動した。
青白い光を放つロック画面を解除して、メッセージアプリを開く。

 今夜は楽しかったです
 送って下さってありがとう直樹さん
 次にお会いできる日が待ち遠しいです
 おやすみなさい

見合い相手を送り届けた直樹が、自宅に到着する時間を見計らって届くメッセージ。
忖度と暗喩で織りなす会話の駆け引きも、読まれることを前提とした空気も、知性の証だ。
頭を使って付き合う相手を、むしろ直樹は好んでいたはず。

それなのに、どうしてこんなに疲れるんだろう…。



◆◇◆◇◆◇◆



久しぶりの休日だった。
前日までの睡眠不足を補った直樹が起きだしたときには、すでに琴子は出かけていた。
弟は、琴子はデートに行ったと言った。デート。つまり今、琴子は男と会っている。
朝食の後、自室で持ち帰りの書類仕事を片付けながら、直樹は自分が傷ついていること、琴子に裏切られたような気持ちでいることを自覚していた。
自分にだって、何度かデートを重ねた相手がいるのに。

午後には弟を連れて父親の病院に向かい、夕方までそこで家族と一緒に過ごした。
消灯時間まで居るという母と弟を置いて、直樹は一人で自宅に帰った。
一日中琴子のことが頭の隅にあって、悶々と考えた挙句、ひとつ思いついたことがあった。
その日はまだ土曜日で、あの習慣を行う日ではなかったけれど、早く帰って試してみたくなった。

 おれは、あの人で果てることができるのだろうか?


自宅に戻っても、琴子はまだデートから帰って来ていないようだった。
そのことに少しショックを感じたけれど、これからすることを思えば家に誰もいないのは好都合だと考え直した。

服を脱いでバスルームに入り、勢いよくシャワーを注ぐ。
さっそく直樹は、慣れた手つきでそれを持ちあげ、ゆるく上下に扱き始めた。
剥き出しにした先端を上に向けると、降り注ぐシャワーの水圧も程よい刺激になって、じわじわと血液が下半身に集まってくる。
芯を持ち始めたところで、今度は下から上に絞りとるように何度も強く締め上げた。

仕事のこととか、父親の健康状態のこととか、普段直樹の頭の多くを占める一切合切の不安を隅に追いやって、自ら施す刺激にだけ集中する。
快感が高まってきたら、次に直樹は見合い相手を思い浮かべようと試みた。
彼女の顔とか、唇とか、首筋とか、足とか…。
琴子を思い浮かべるときに湧き出てくるパーツを、同じように見合い相手のそれに置き換えて想像を膨らませる。

もう何度も会っているのだから、それなりにイメージは像を結んだ。
それなのに、なぜか熱は高まり切らない。
動かす手の速度を上げても、身体は気持ちいいと感じているのに、握りしめたそこは中途半端な昂りのまま、絶頂に向かう波に乗り切れない。
もどかしさはやがて苛立ちになり、発散したいという身体の欲求に抗えなくなった直樹は、イマジネーションを裸の琴子に切り替えた。

満たされないまま焦らされた欲望は想像を荒々しくさせる。
頭の中で、直樹は琴子をうつ伏せにして押さえつけ、その白い尻を高く持ち上げて、ぬかるんだ隙間に自分の固くなったものを差し込んでいた。
右手の動きが自然と大きく速くなる。

琴子
琴子
そんな顔、するなよ…

「琴子…はあ…」

思わず洩れた声に気が付かないくらい、直樹は行為に没頭していた。
あまりの気持ちよさに終わらせてしまうのが惜しくなって、果てそうになるのを何度か堪えた。
手の中のそれは血管が張り出すほど充血し、硬く熱くなっている。
強く握りしめたまま素早く上下させているから、今にもそこから軋んだ音が聞こえてきそうだった。

口を開けて呼吸を弾ませていると、口の中にどんどんシャワーの水が注ぎこんでくる。
心臓がバクバクと打ち付けている。もう耐えられない。もう…。

「ああっ…琴子…琴子…」
スパークの後、最後の一滴を絞り切るまで唇は琴子の名前を呼んでいた。

直樹はいっきに冷静になった。
情けなさに呻きたくなる。本当に、思い通りにできないことばかりだ。
今の直樹には、自らの身体さえも、自分の思い通りにできない。



◆◇◆◇◆◇◆



風呂から出ると琴子が帰宅していて、直樹に気づかず台所で鼻歌を歌っていた。
機嫌の良さそうな様子に腹が立ち、直樹は「今夜は帰らないかと思った」と悪意を込めて琴子を揶揄った。
心の中では、本当に琴子が帰って来なかったらどうすんだよと自嘲するが、それを顔に出すことはない。

そして、琴子はやはり琴子だった。
直樹の言葉を言葉の通り真に受けて、動揺し、熱湯の入った急須を手から滑らせた。
沸騰した薬缶から移されたばかりの熱湯が、フレアスカートから伸びる琴子の白いふくらはぎにかかる。

「あっつ!あつーい!入江くん!」

琴子の悲鳴に直樹は我を忘れ、乱暴に彼女を抱き上げた。
訳の分からないことを喚く琴子を黙らせてバスルームに走る。
濡れたままのタイルに座りこんで、お互いの服がびしょ濡れになるのも構わず赤くなった琴子のふくらはぎにシャワーの冷水を注いだ。

改めて患部を見ると、皮膚が赤くなっているだけで腫れたりはしておらず、跡が残るほどではなさそうだった。
それをそのまま伝えてやると、琴子も少し落ち着いたようだった。

「入江くんって、やっぱりお医者さんにむいてるよね」
「…こんなことで医者になれたら誰でもなれるさ」

会話が途切れて、シャワーの音がやけに響いた。
バスルームで、二人きり。直樹は、顔を赤くしてうつむく琴子を盗み見た。
濡れて張り付いたスカートは琴子の足の形を露わにしていたけれど、柄のおかげで素肌が透けて見えることはなかった。
柔らかそうなふくらはぎが膝に続いて、視線はそこを頂点として太ももから尻へと落ちていく。
スカートに隠された奥、足の付け根あたり。
ほんの数十分前に、自分がここでしていたこと、頭の中で行っていた行為を思い出して、直樹はそわそわと落ち着かない気持ちになった。

琴子は、あの奥に、自分で触れたことはあるんだろうか。
直樹がさっきそれを握って快感を得ていたように、琴子も自らの指先でそこを慰めたりするんだろうか。

頭がぼうっと痺れたようになり、身体が疼くのを自覚する。
自分が何を口走るか判らない不安に襲われ、直樹はとっさに「太てえ足」と、子どもじみた悪態をついた。



◆◇◆◇◆◇◆



父親が退院した。それを祝うホームパーティーで、直樹は見合い相手を家族に紹介した。
このままいけば彼女と結婚することになるだろう、一方で、琴子もデートを続けているようだった。

「あら琴子ちゃん、出掛けるの?」
「はい。あ、おばさん。あたし今日、夕食も外で済ませてきますね」
「そうなの。分かったわ」

行ってきます、という琴子の声を、直樹は自室でスーツに着替えながら聞いていた。
今日は直樹も見合い相手と会う予定だった。美術館に誘われていた。
待ち合わせまで少し時間があったので新聞でも読んでおこうとリビングへ降りると、母親が弟相手に愚痴をこぼしていた。

「琴子ちゃん、おめかししてデートかしら」
「デートだろ」
弟は、ソファに座って新聞を広げた直樹をちらりと見てから、苛立ちを隠さない口調で言った。
「このところ休日はいつもじゃないか。相手は誰か知んないけど、ホント物好きなヤツ!」
「裕樹っ!」
一度は叱ろうとした母親が、目を三日月形にして弟を揶揄い始める。
「あら、あなた、もしかしてヤキモチ?」
「なんで僕が!琴子なんかに!」
「まあ~!裕樹ってば、琴子ちゃんのこと好きだったのぉ~?」
「はぁ?!」
慌てた様子の弟とにやにやした母親の視線を感じたが、直樹は目を合わせないまま黙って新聞を読み続けていた。
それを見て、母親がこれみよがしに「はあ」と大きな溜息を吐く。

「お兄ちゃんがダメなら、もうこの際裕樹でもいいわ。大きくなったら琴子ちゃんをお嫁さんにしてちょうだいよ!年の差なんて今時大した問題じゃないわ。あたしは琴子ちゃんがいいのよぉ!」
鬼気迫る母親に手を取られ、弟は目を白黒させている。

「おふくろ!」
そこに直樹の怒声が響いた。
「いい加減にしろよ。裕樹にも選ぶ権利があるだろ。自分の思い通りにならないからって無茶苦茶言うなよ」
冷たい声で、しかし誰とも視線を合わせず、表情さえも変えずに新聞に目を落としている直樹。

弟は母親に気圧されたような姿勢のまま、そんな兄をしばらく無言で見つめていたが、
「いいよ、ママ」
年齢に見合わずひどく落ち着いた声音で、母親の提案を受け入れた。
「琴子のことは特別好きって訳じゃないけど、だからといってキライな訳でもないし」
思わず目を見張った直樹と母親に構わず、声変わりもまだ始まらない弟の声が続く。
「それに、あいつはもう3年も僕たちと一緒に暮らしてて、家族みたいなもんだろ。だから、僕、別に琴子と結婚したっていいよ」
それを聞いた母親はパァッと表情を明るくさせ、飛び跳ねんばかりの勢いで意気込んだ。

「きゃーっ!ほんとなのね、裕樹!なんていい子なの!あなたって見る目あるわぁ!」
「18歳になったらすぐに籍を入れましょうね!琴子ちゃんの説得はあたしがするから!」
「大丈夫!裕樹みたいな子が側にいて、目の前でどんどんいい男に成長すれば、琴子ちゃんも意地悪なお兄ちゃんのことなんかすぐに忘れちゃうわよ!」

バン!!!

テンション高く畳みかける母親の甲高い声を、大きな音がせき止めた。
直樹の手のひらがテーブルを叩きつけた音だった。リビングがしんと静まった。

「ふざけるのもいい加減にしろよ」
「だってぇ」
もしも琴子がその場に居たら、直樹の声と態度で真っ青になっていただろう。
けれど、自分と似た顔が冷たい表情をかたどっていても、母親はひとつもひるまなかった。

「裕樹、おまえもだ」
次に直樹は、その冷たい視線を弟に向ける。こちらもやはりひるむことなく、強い視線で兄をにらみつけていた。
直樹は表情を緩めて静かな声で弟を諫める。
「裕樹。そんなもんじゃないって、いくら子どもでもそれくらい判るだろ。琴子のこと好きでもないくせに、結婚するなんて軽々しく言うな」

バタン

ドアの音を立てて、直樹がリビングを出ていった。
「やぁねぇ本気になっちゃって」
母親はため息をついた後、何気なく抱いた弟の肩が小さく震えていることに気づいた。
「あら裕樹?どうしたの?まあまあ、泣かないで。お兄ちゃん、ちょっと機嫌が悪かったのよ」

子どもとは言え、そう易々と泣くことはしない年頃だ。
そんな彼が、顔を真っ赤にさせて唇を真一文字に結んだまま大粒の涙をこぼしている。

「大丈夫。お兄ちゃんは怒ってないわ。あたしたちがふざけてただけって、ちゃんと分かってるわよ」
大好きな兄に叱られたショックで泣いていると思い込んだ母親が、汗ばんだ弟の額を優しく撫で、前髪を払いながら慰めた。


 僕だってわかってるよ。
 そんなもんじゃないって、わかってるよ。
 小学生の僕にさえ解ってることなのに。

 好きでもないくせに結婚しようとしてるのは、
 お兄ちゃんの方じゃないか。


琴子と直樹が、お互いのデート相手と一緒に街中で鉢合わせしたのは、その数時間後のことだった。



◆◇◆◇◆◇◆



深夜まで及ぶ残業を終えて、誰も待っていない真っ暗な自宅に帰る。
帰宅したらバスルームに入り、シャワーのコックをひねってすぐにそれを握りしめた。

最近の直樹には、それを扱いている時間だけが慰められるひとときだった。
こうしている間は、好きなだけ琴子を思い浮かべることができる。
イマジネーションを解放すればするだけ、快感の精度も高まる。
頭の中で、直樹は思いのまま何度も欲望を琴子にぶつけた。

習慣は、日曜の夜のバスルームに限らなくなっていた。

思い通りにならない現実の鬱積を晴らすように、休憩時間の会社のトイレで、眠りにつく前のベッドの中で、直樹は時間の許す限り甘い世界に耽溺していた。
果てるまで高まらなくてもよかった。ただそれに触れて、琴子のことを考えていれば心が休まる。
行為のために琴子のことを思い浮かべているのか、それとも、琴子のことを思い浮かべたいがためにその行為をしているのか。
直樹には判別がつかなくなっていた。



◆◇◆◇◆◇◆



会議から戻ると、午後の予定がすべてキャンセルになっていて、直樹は数日ぶりのまとまった空き時間を得た。
帰宅して昼食をとり、少し眠ってから大学に向かった。
もう戻ることはないかもしれないから、研究室や部室に残した荷物を回収するのが目的だった。
テニスコートの傍らで見知った面々と出会う。この場所から遠ざかってまだほんの数か月だというのに、すでに懐かしい感じがした。

琴子はそこにいなかった。代わりに、彼女の親友たちに会い、思いもよらない情報がもたらされた。
「だけど金ちゃんも大胆よね。いきなり琴子にプロポーズしちゃうんだもん」



荷物を抱えて、電車に乗った。
自宅の最寄り駅に着いて、改札を抜ける。家までの道のりを直樹は茫然と歩いていた。

完全に思考が停止している。
ドミノ倒しのように、ひとつのトリガーから一斉に発生する無数のシミュレーション。
普段は自動的に展開されるそれらが、今はなにもかも機能していない。
頭の中は水を打ったように静かだった。

中途半端な時間に帰宅したせいで、自宅には誰もいなかった。
そのことにひどく落ち着きを感じる。誰とも顔を合わせたくなかった。

ベッドにごろりと寝転んだ。
落ち着いたことで、徐々に思考が動き始める。

琴子。
おまえ、結婚するのか。

たくさんのことは考えられず、その問いかけが頭の中を駆け巡っていた。
日曜日のバスルームで、それ以外の場所で。
人目を盗んで直樹が溺れたイマジネーションの数々。
ふいにそれらがよみがえった。

琴子の、肌理の整った白い首筋。
服の中に隠れた肌もきっと同じように滑らかだろう。

鎖骨の下に続くなだらかなふくらみ。
それらを両手でわしづかみにして、立ちあがった先端を口に含む。
ささやかに尖るそれを舌で擽りながら吸い上げる。琴子の吐息が甘くなる。

そうしたら、弧を描く胸のふくらみの下に柔く噛みついて、鬱血の跡を残したい。
わき腹に、臍に、舌を這わせて、身を捩ってくすぐったがる琴子をうつ伏せにして。
丸い尻に歯型を残すくらい噛みついてみたい。

足の間のスリットが滴ってくれば、そこに指を滑らせくちゅくちゅと卑猥な音を立ててみる。
その液はどんな味がするんだろう。
ひだに隠された小さな突起を剥き出しにさせて、自分でそれに触れたことがあるか問い詰めてやったら、琴子はどんな顔をするだろう…

頭の中で幾度となく繰り広げた琴子の痴態。
汗ばんだ膝の裏に手を入れ大きく開脚させ、琴子の温かなぬかるみに身を沈める男は、いつだって直樹本人だった。

だけど、現実は。
琴子は、琴子と結婚する相手と、それを行うのだ。
直樹の頭の中だけで行われていた行為が、琴子の結婚相手によって、近い将来実現されてしまう。

直樹は弾かれたように飛び起きた。

階段を駆け下りて、玄関を飛び出す。
ドアを閉める直前に傘を手にしたのは、我ながらさすがの判断力だった。

自分以外の誰にも、琴子にそれをさせられない。
ようやくそのことに気づいた直樹は腹をくくった。

何を望んでいるのか。
何が欲しいのか。
迷う余地もなく明白だった。

自分の気持ちを琴子に告げるため、直樹は駅に向かって走り出した。
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2019/09/24

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