雨の日のプロポーズ〜結婚式の時期を舞台にした、重雄さんvs入江くんのお話
~prologue~


重雄は激怒した。
必ず、かの邪知暴虐の若造から娘を守らねばならんと決意した。

重雄には、年若い女の機微などわからぬ。重雄は、ふぐの料理人である。ふぐをさばき、料理を供して暮らしてきた。
けれども娘に関しては、人一倍に敏感だった。

娘の母親である妻を亡くしてからは、父娘ふたりきりの家族であった。
ほんのささいな吝嗇がたたり、新築の我が家が倒壊してからこちら、入江家の厚意の世話になっている。丸裸同然で放り出された自分たちを、彼らは家族待遇で受け入れてくれた。親友とその妻に対しては、筆舌に尽くしがたき恩義があった。

しかし、彼らの息子は別だ。重雄には、その長男がいっそうにくらしい。
かの若造は非道であった。重雄の娘の、積年の真心を無視するばかりか、出来の悪さに暴言を吐き、突き放し、挙句の果てには、これみよがしに他の女を娶ろうとした。娘が自分に懸想していると、知った上での暴虐だ。

重雄は恩知らずな男ではない。
かつては、若造に対しても、キチンと感謝の気持ちがあった。冷たい態度や乱暴な言葉も、若さ起因の不器用さだと、微笑ましく見守る時期もあった。親友が病に倒れたおりには、若い双肩にかかる重責に同情さえした。
だからといって、他の女と縁談を進める若造のかたわらで、大事な愛娘がいつまでも辛酸を嘗めさせられるのは我慢ならない。

一刻も早くこの家を出よう。
重雄が固く心に誓ったのは、ついこの間のことだったのに…

「お嬢さんと結婚させてください」

その夜、全身をずぶ濡れにした若造は、同じくずぶ濡れになった愛娘の肩をしっかりと抱き、両家の家族が揃う前で、ふてぶてしくも重雄にそう宣言したのだった。



直樹は、すぐにでも琴子を抱くつもりであった。

ほんの数時間前、とうとう琴子に対する気持ちを認めた。
一度認めてしまえば、なぜ今まで見ない振りができたのか不思議な程、それは強烈な気持ちであった。

駅前で琴子を待ち伏せし、見失いそうになっていた彼女の気持ちを聞き出した。自分の想いもぶちまけた。
そうやってお互いを認め合い、ふたりは降りしきる雨の中、抱き合って深くキスを交わした。

直樹は、二人の気持ちを、ただ二人だけのものとして完結させるつもりはなかった。自宅に琴子を連れ帰り、家族の前で宣言をした。自分は琴子と結婚したい、と。
長らく気持ちをごまかしていたが、正直になった直樹は、坂道を転がり落ちるようだった。
琴子をすっかり自分のものにしたい。そんな欲求が直樹を急き立てていた。

お互いの身辺はまだ整理されていない。それでもふたりはもう、相思相愛の間柄なのだ。
家中が聞き耳を立てていそうだからと、今夜は一緒のベッドで寝るのをやめたが、直樹は早々に琴子との関係を進めたかった。

早すぎるなんて思わない。出会ってからすでに3年7ヶ月。琴子的には5年7ヶ月が過ぎている。
そのうちの2年以上は、ひとつ屋根の下で暮らしてもいるのだ。同年代の恋人達より、ふたりは余程、濃い時間を共に過ごしている。

(明日、琴子を迎えに行って、そのままホテルにでも行こう)
一人寝のベッドの中で考える。
(泊まらなきゃやれないわけでもねーし。日付が変わる前に帰ってくれば、おふくろは適当にごまかせるだろ)

予定を算段する直樹は、明け方まで眠れぬ夜を過ごした。



◆◇◆◇◆◇◆



重雄は、目覚まし時計が鳴る何時間も前に目が覚めた。
普段は帰宅が深夜になるせいで他の家族より朝の遅い重雄だが、その日はあまり眠れなかった。ふとんに入って、ほんの短時間うつらうつらとしているうちに夜が明けた。
時計を見ると、彼にとってはまだ深夜帯と言ってもいい時刻だった。

料理人らしく短く刈り込んだ頭を、ぐりぐりと片手で掻きまわす。
(昨夜の出来事が、ちったあ堪えてんのかな・・・)

例の若造による、愛娘との結婚宣言である。
どんなに邪険にされようと、娘はずっと若造を想っていた。若造のほうも、ついに娘と結婚すると宣った。
両家にとって好ましい関係に落ち着いたのだ。
それなら、若造に言ってやりたいことの一つや二つ、大人の了見で呑みこんでやろうじゃないか。
そう考えたから、昨夜の重雄はふたりの結婚を受け入れた。

けれど本当は、彼自身、心の底から祝福する気持ちになれていないのだ。
今朝の浅い眠りがそう物語っている。寝つきも悪かったし、夢見もすこぶる悪かった。
意外とメンタルが睡眠に影響しやすい重雄であった。

寝直そうかと思ったが、諦めて起き出すことにする。
布団をたたみ、身支度を整えて部屋を出ると、早朝のリビングには先客がいた。

「おはようございます」

重雄に気づいた直樹が、新聞から顔をあげて、朝の挨拶をよこした。彼はワイシャツとスラックス姿で、ソファにゆったりと座っている。そばのローテーブルには飲みかけのコーヒーカップがあった。

「おはよう、直樹くん。早いね」
「ええ、今日は早めに出社して仕事を片付けようと思って」
「そっか。忙しいんだね。でも、無理しちゃあいけねぇよ」
「はい」

早朝の白く弱々しい自然光の中で、直樹の顔色は冴えなく見えた。

(直樹くんも、あんまし寝れなかったのかもしんねえな…)

朝の緑茶の準備をしながら、重雄はちらちらと直樹を盗み見た。
眺めるほどに、改めて、直樹という男は男前だと感心する。長い足を組み、ソファに深く腰掛けている姿には気品があって、若さに似合わぬ貫禄が備わっていた。実際、彼がなかなかの胆力の持ち主であることも知っている。

(でも、なんか、今朝の直樹くんはいつもより柔らかい感じがすんな)

ダイニングスペースに移動して、緑茶をすすりながら、なお彼を眺め続けていると、
「どうかしたんですか?」
ふいに直樹がこちらを向いたので、重雄は思わず胸を高鳴らせてしまった。
「いやっ…なんにもねえよっ?」

わざとらしく目を逸らせてしまったことに恥じ入る。
同時に、自分のような健全なおじさんでさえときめかせてしまうようでは、若い女性などひとたまりもないだろうな、と思う。真実、直樹は大変もてそうだ。というか、急展開に紛れて軽く流してしまったが、彼にはじっさい恋人が…そうだ、彼はまだ、琴子の他に婚約者がいる身ではなかったか?

忘れかけていた憤怒が、重雄の裡でふつふつと湧きたった。

「昨夜は聞きそびれちまったんだが…君、琴子と結婚するつもりって、具体的に、まずはどういう付き合いをするつもりなんだい?」

つっかかる物言いになった重雄に気が付かないのか気にしないのか、直樹はしれっと返答を返した。
「そうですね、とりあえず、今夜は食事に誘おうと思っています」

(食事!今夜!!それ、絶対食事だけじゃ済まねえよな?!)

重雄とて、男である。それゆえ、同じ男である直樹の本音には、否が応でも見当がついてしまう。
すました顔をして、この若造が琴子に何を求めているか、如何にハレンチなことをしたいと思っているか。重雄自身にも身に覚えがあるからこそ、邪推するなというのは端から無理な話であった。

(でも、今の直樹くんには別の婚約者がいる。彼は誠実な男だ。そんなどっちつかずのことをするわけがない)

否定してみるが、疑いは晴れない。
よしんば重雄の期待通りでも、この男であれば、政略の絡む婚約ですら持ち前の能力でさっさと解消してしまいそうである。あんなに大騒ぎして、会社のためにはこれしか方法がない!くらいのノリで、あっという間に結納直前まで進めたくせに!!
考えれば考えるほど、ますますむかむかしてくる重雄であった。

いずれにしろ、重雄が彼らの結婚を認めてしまったからには、まもなく彼の大事な娘は、目の前の若造にペロッと美味しく頂かれてしまう運命なのだ。

(いや、琴子が嫌がれば別だろうが…)

残念なことに、重雄はその点において、まったく我が子を信用できずにいた。
琴子はこの男に骨抜きにされている。口にはできないようなあれやこれやでも、直樹に求められればきっとNOとは言えないだろう…。

それならば、と、重雄は固く決意した。
娘(の貞操)を守るのは、父親である自分の他にいない、と。
胸の内で燃え上がる業火をぐっと押さえつけ、重雄は直樹を見据えて言った。

「直樹くん、ちょっと君に話しておきたいことがある。悪いがおれの部屋に寄ってくんねえか」



◆◇◆◇◆◇◆



重雄の部屋に入るのは、これが初めての直樹である。

そこはすっきりと片付いた和室で、生活感が巧妙に隠されていた。開かれたままの仏壇から、線香の煙が細くたなびいてる。芳香と呼べる、質の良さそうな代物だった。
壁や茶箪笥にある季節のしつらえにも、重雄の優れた感性が表れていた。

直樹はこれまで知らなかった、重雄の持つ一面にはっとさせられた。
彼は普段朴訥としているが、ふぐを扱う階級の日本料理店を構える、一国一城の主でもあるのだ。

そんな洗練された和室に、ぴりぴりとした空気が充満していた。言わずもがな、発信源は重雄である。
腕を組み、渋い顔をしてむっつりと座布団に座っている彼を目の前にして、直樹はひそかに戸惑っていた。

(おれ、何かしたか?)

何かしたと言えば、昨夜の結婚宣言しか思いつかない。
しかし、重雄も他の家族同様、彼らの結婚を歓迎していたように思うので、それのせいで今更機嫌を損ねているとは考えづらい。となると、普段から接点の薄い直樹には、彼の不機嫌の原因など思い当たることは皆無である。
考えても仕方がないので、足がしびれる前に話が終わることを期待しながら、直樹もむっつりと正座を続けた。

しばらくして、ようやく重雄がもごもごと口を開いた。

「…もう、昨夜のうちに、やっちまったのか」
「はっ?いえ、まだ」

やっちまったかと問われ、思わず否と即答したのは、直樹自身が早くやっちまいたいと考えていたからである。
とはいえ、重雄の言うところの「やっちまう」とは、はたして直樹と同じ意味なのか。ここは、しっかり考えてから答申すべきではなかったか。
顔は能面のままでも、内心ひやひやの直樹であった。

「まあ、そうだよなっ!なんつってもまだ、昨日の今日だもんなぁ!直樹くんに限って、そんな手が早いわけねーよな!」
むっつりから一転し、ははははは!と、重雄は豪快な素振りで笑いだした。

(やっちまうって、やっぱそういう意味だったのか!)

普段から声を立てて笑うことをめったにしない直樹だが、重雄につきあって、薄い愛想笑いを浮かべておく。
背中は冷や汗ダラッダラである。

正直なところ、笑う意味が分からない。直樹には、今のやり取りで面白く感じることなど一つもなかった。というか、誰にとっても、この手の話題は彼女の父親と進んで共有したいものではないだろう。
大きな口を開け、いかにも愉快そうに肩を揺らしている重雄も、その目はひとつも笑っていない。

「・・・・・・」

むなしい笑いの波が引いて、まもなく、乾いた沈黙がふたりの男の間に落ちた。

これはなんの拷問だ。非常に居心地悪く思うも、直樹は耐えた。
もともと、たいていの事柄に対して動じない振りは得意である。重雄の意図がはっきりするまで、直樹はあえて問い質したりせず、受け身に徹することを決めた。
重雄も間が持たないと感じているのか、うごうごと座り直して咳払いなどしている。

「直樹くん」
「はい」
「お願いがあるんだ」

いよいよ、取り繕った空気を改め、重雄は直樹に真剣なまなざしを向けた。
これは真っ向から受けねばならぬ話だと察知し、直樹も居住まいを正して重雄を見つめ返す。

「しばらく、琴子に手を出さねぇで欲しい」

重々しく重雄の口から発せられた台詞に、直樹は思わず目が点になった。



◆◇◆◇◆◇◆



「…それは、なぜ」

手を出すなという宣告に虚を突かれたような直樹を見て、ちょっぴり溜飲を下げる重雄であった。
そうして、昨日の今日で直樹に容易く欲望を果たされるのが許せなかったのだと気付く。
琴子は、重雄の娘は、何年も報われない片恋に苦しんだのだ。直樹にも同じくらい苦しめとは言わないが、せめて彼の心意気を見届けるくらい、父親として許されるのではないか。

「同じ屋根の下で、嫁入り前の俺の娘が…って、想像するとたまんねえんだよ。それに、ホイホイ次の女に手を出してちゃあ、きみの婚約者さんにも示しがつかねえだろう」
「あの人とは会社上の関係であって、個人的に親密だったわけではありません」

即答である。
痛いはずの指摘にも動じることなく、あまりに直樹が堂々としているので、重雄は却ってため息が漏れた。

「親密とかどうとか、そんなのを今ここではっきりさせたいわけじゃねえんだ。実際中身がどうだろうと、ハタから見りゃ君はその人と付き合ってたんだから」
その言葉を受けて、はじめて直樹はうつむいた。

重雄は直樹を諭すように続けた。
「でも、これから琴子を相手にするなら、ちゃんと禊をしてからにしてほしい。立場だけの話じゃねえよ。あいつは高校の頃から君のために散々苦しんで、ろくな恋愛を経験してねえんだ。ボーイフレンドと楽しい段階も踏まずに、一足飛びでいきなり男の欲望にさらされるなんて、琴子が不憫だと思わねえか」

滔々と語りながら、(あれ、おれ今良いこと言ってんじゃね?)と思う重雄であった。
眉間に力を入れて、しかつめらしい顔を取り繕う。

「そういうわけでよ、当分は、琴子に合わせて付き合ってやって欲しいんだ。君なら出来んだろ」

そう言って直樹の腕のあたりを気安く叩くと、彼は重雄と目を合わせないまま、わかりましたと了承した。



◆◇◆◇◆◇◆



(疲れた…)

時は夕方。
自宅に向かうタクシーのシートに沈み込んで、ため息を吐く直樹である。
朝から様々な事案に対応し、彼は心身ともに疲弊していた。

まず早朝には、重雄との対峙があった。
見合い相手のことを言われたときには、痛いところを突かれたと思った。
反論したい気持ちをぐっと押し殺して、話を聞いているうちに、重雄の意図は別のところにあると気が付いた。
つまり重雄は、直樹と琴子が結婚すること自体に異議はないけれど、直樹のこれまでの所業については許しがたく思っているのだ。

(だからって、おじさんに嫌われてるとまでは思わねーけど)

早めに出社して仕事を片付けたあと、午後には見合い相手との会合があった。
破談の話をするためだ。
相手の性格からして、ごねられる心配はしていなかった。それでも、破棄を申し出るときは多少の勇気が必要だった。
すべてを告げ終わった後、ハンカチで涙をぬぐう姿に胸が痛んだ。

(もしも、今朝おじさんと話をしてなかったら)
直樹は思う。そうしたら、破断を告げるのにこれほど心痛を感じることなどなかっただろう。

実は、重雄と話をするまで、直樹はそういう言葉を自分に当てはめて考えたことがなかったのだ。
つまり、見合い相手とは付き合っている女のことで、破断とは商談の決裂ではなく別れ話のことであるとか。
見合い相手は、会社の利益や直樹という商才の損失を惜しんでいるのではなく、ただただ恋人との別れに涙しているのだとか。

周囲にとって、また、先方にとって、自分がどんな立場であったかを初めて自覚したのである。
別れ際になって、ようやく、心からの謝罪をした直樹なのであった。

そんなわけで、重雄の話は直樹の出鼻を挫くのに充分な威力だった。

重雄の考えた通り、身辺を清算したら、すぐに琴子を誘うつもりでいたのだ。
直樹が見合いを受けたのは企業利益を追及したからであって、他の女と恋愛関係になるという認識がなかったからだ。
けれどこうして考えを改めた今、それを実行すると「他の女と別れてすぐの身で琴子に手を出した」ということになる。それではよろしくないと思った。
他人にどう思われるかを気にしたのではない。重雄の指摘を受けて、自分自身が、そのふるまいは確かに軽薄であると深く納得してしまったのだ。

車は住宅街に入り、速度を落としていた。
秋も深まり、日没はずいぶん早くなった。みるみる薄暗くなった窓の外を眺めていると、反対車線の歩道を琴子が歩いているのを見つけた。
すぐにタクシーを止める。料金を払って道路を渡り、直樹は琴子に声をかけた。

「入江くん!今帰り?」
「ああ」
「今日は早いんだね」
「今朝早く出社したからな」

重雄との一件で取りやめはしたが、本当は、仕事を早く切り上げて琴子を誘うつもりでいたのだ。
琴子と肩を並べながら、直樹は彼女と顔を合わせるのは昨夜以来であると気づいた。
パジャマ姿の琴子を抱きしめて、大好きだよと告げたことも併せて思い出し、にわかに体温の上がる心地がする。
琴子を盗み見ると、彼女も赤い顔をしていて、どう振る舞うのが正解なのか思いあぐねているようだった。
ふたりはしばらく黙って歩いた。

「今日、言ってきたよ」
「えっ?」
「沙穂子さんに」
「そうなんだ…」

「お前は?」
「…今日は、金ちゃんに会わなかったから」

お互いに、はっきりした言葉をぼやかしたまま報告し合う。

(会わなかったからって、あいつは毎日食堂に来てるだろう。さっさと終わらせろよ)

琴子の言うことに正直いらっとした直樹であったが、重雄の言葉を思い出して耐えた。
琴子のペースに合わせると約束したのだ。

(それに…こいつらは付き合ってたわけじゃない)

直樹は自分を取り成した。
結納直前まで行ってしまった自分と異なり、琴子と金之助はそれほど関係を進めてはいなかったはずだ。
とはいえ、琴子は、金之助から結婚して欲しいとまで言われている。
直樹であっても、その返事をする前に他の男とどうこうなってしまったのでは、さすがに金之助が報われないという気持ちがした。

「案外、良い抑止力になるかもな」

恋敵への後ろ暗い優越を含み笑いにして、直樹は琴子の手をすくい取った。
独り言の意味が琴子に伝わるはずもなかったが、絡めた指先には驚いたようだった。はっとした様子で直樹を見上げた。黄昏時であっても、彼女の頬が赤く熟れているのが判る。なにかご不満でも?と言わんばかりに見返してやると、琴子はうつむき、表情が見えなくなった。

つないだ琴子の指先にきゅっと力がこめられたとき、今度は直樹のほうが、らしくなく赤面しそうになった。高まった鼓動に戸惑う。琴子は、おろした髪の隙間から覗く耳までが赤い。それを眺めていると、直樹はますますくすぐったいような気持ちになった。これほど初々しい感情が自分にあったことに面食らう。

確かに、今はまだ、こういうささやかなふれあいこそが相応しいふたりなのかもしれなかった。



そんな風に思ってみたりした、数日後。

金之助問題も解消した。
ふぐ吉での琴子と金之助の話し合いに、直樹も同席したのである。
ついに直樹は、金之助を相手に、おれたちこういうことになりましたんで、と見せつけることができたのだ。

これで、正真正銘、直樹と琴子は恋人同士になった。

ふぐ吉からの帰り道、直樹はめずらしく有頂天になっていた。
夕暮れ時で、自宅に近づくにつれ、辺りはどんどん暗くなっていった。
帰りついて玄関を開ける前、直樹は薄暗がりにまぎれ、思わず琴子に触れてしまった。

最初は、かすめ取るようなキスだった。
急に引き寄せられて唇を奪われた琴子は、びっくりまなこになって両手で唇を覆っていた。
そんな琴子に直樹はますます気をよくして、今度はしっかりと彼女に向き合った。
耳のあたりの髪をかき上げ、温かい頭皮に指先を潜り込ませる。直樹を見上げた琴子が、ゆっくりと目を閉じた。
震えるまぶたを見つめながら顔を近づけて、直樹は改めて琴子の唇にキスをした。


(そういえば、お互いが了承した状態で、こんな風にキスをするのは初めてだな…)

唇で唇をなぞってやると、くすぐったいのか、琴子が小さく吐息を漏らした。
開いた隙間を舐めてみると、そこはすぐに緩まった。硬い歯の感触を超えて舌を差し込むと、迎えるように口が開いて、すぐに琴子の柔らかい舌が直樹の舌先に触れた。それを絡めて吸い合っている間、直樹の手は琴子の首から背中、腰のあたりをさまよっていた。

夢中になって、忘れていたのだ。
その場所が玄関先であったことを。

「なにをしてるんだい」

ふたり揃ってとっさに身を離す。
そこには、鬼の形相をした重雄が立っていた。



恥ずかしがる琴子をあしらって、直樹だけが重雄の部屋に連行された。
腕を組んであぐらになった彼の前には、正座をする直樹がいる。
流石にばつが悪く、重雄の靴下あたりに目線を落としていた。

いらいらと膝を揺らしながら重雄が切り出す。
「しばらく手を出さないって約束してくれたのは、まだ数日前だよな」
「…ええ」
「てぇことはなんだい?君にとっちゃあ、しばらくっつーのは、ほんの2、3日ってぇことなのかい?」

重雄は、完全に酔っ払いが絡むノリである。
どんな揚げ足もすくってやる気まんまんの、ねっちょり絡みつく勢いだった。
こういう重雄を相手にするのは気が重いが、無視するわけにもいかない。
直樹は居直ることにした。悪いことをしたわけではないのだ。

「キスしかしてません。付き合っていたら、今どき中学生だってそれくらいするでしょう」
「舌は?」
「!!」

絶句する直樹相手に、重雄は、
「舌は入・れ・た・ん・で・す・か、ってぇ聞いてんだよ」
などと供述しており、相変わらずねっちょり絡む気概に満ち溢れていた。

彼女の父親相手に、なにゆえここまでつまびらかに報告しなくてはならないのだ。
直樹は思わず頭を抱えた。もちろん内心での話である。現実の彼は能面クオリティを保っていた。
ポーカーフェイスには定評のある直樹である。

「こんな信用のおけない男に、琴子を任せるわけにゃいかねえな」
「それは、結婚を認めないということですか」

(おじさんに認められなくても、琴子なら駆け落ちしてでもおれを取るだろう)

そう考えて黙っていると、重雄も同じ見解にたどり着いたのか、自分の言ってしまった台詞にオロオロしだした。

「とにかく!そんな易々と手を出されちゃ、琴子だってびっくりするだろ!可哀想じゃねえか!」

重雄は直樹の肩をがっしと掴み、真顔で顔を覗き込む。そんな彼の目は、ちょっとだけいっちゃっていた。
分の悪さを悟り、半ギレで言い分をごり押しするつもりなのだ。
「直樹くん。おれの娘を安い女にしてくれるな」

重雄の剣幕にドン引くものはあるが、気持ちは判らなくもない直樹であった。
思えば自分は、この人の目の前で何度も琴子を軽んじたのだ。
それに重雄は琴子の父で、自分にとっても近い将来義父となる人である。

(おれって実は、おじさんのことも結構好きだったんだな)

「わかりました。琴子さんとは、もっと時間をかけてお付き合いします」
ここは下出に出ることにして、要求を丸呑みにする。重雄は目に見えて生き生きとしだした。
「おう、たのむよ!」
コロッと上機嫌になって、パシパシと直樹の肩を叩いたりしている。
根は単純な人なのだ。さすが琴子の父親だ。

(時間が必要なのは、琴子じゃなくておじさんだな)

琴子に合わせろと言いつつ、その実、激変した状況に戸惑っているのは重雄なのだ。
重雄の抵抗が、娘を持つ父親のヤキモチだと思えば、なんとなく微笑ましい。
罪滅ぼしになるなら、彼の気が済むように従うのも、直樹にとって嫌なことではないと思った。

(おじさんが落ち着くまで待とう)

直樹は決めた。
しばらくは、触れるだけのキスで我慢する。
バレなければ…という悪魔の囁きも聞こえるが、やってしまえば琴子の態度から結局バレてしまう気がする。
それに、重雄に義理を立てるのも、一生関わる相手として大事なことだと直樹は思う。

しかしながら、この義理立ても、あっけなく覆されることになる。



唐突などんでん返しは、紀子の口からもたらされた。

雨の日の結婚宣言から怒涛の数日が経過し、直樹と琴子の身辺も整った。重樹の体調も順調に回復している。
両家にとって喜ばしい状況を祝う、ホームパーティーの席であった。

「あっ、ちょっとみんな、11月21日は空けておいてね」
和気あいあいとした宴のさなか、紀子が、そういえば大事なことをお伝えしそびれてました、的なノリで言い置いた。
「何かあったっけ、その日」
予定を確認する家族に、せっせとお手製のご馳走を給仕しながら、軽い調子で微笑み返す。
「結婚式よ」

「お兄ちゃんと琴子ちゃんの、結婚式」


えーー!という大絶叫の後、まずキレたのは直樹であった。
「なにふざけたこといってんだ!」

主役である自分たちの知らぬところで、結婚式の予定が組まれているなんてありえない。
「おれはまだそんなつもりはない!大学卒業してからっていっただろ!」
青筋を立てる直樹のかたわらで、琴子は「さ、再来週…」などど呟き青ざめている。

「善は急げっていうじゃない」
「だって、大学卒業までまだずい分先だし」
「それまでにお兄ちゃんの気持ち変わっちゃいやだし」

紀子はひとつも悪びれず、直樹がものを言えなくなっている間に、さっさと他の家族を丸め込んでがっちりと外堀を固めていた。

そっと重雄を見やると、衝撃が抜けないのか、青い顔をして喘ぐように口をパクパクさせている。
琴子と直樹が付き合うことですら、受け入れるのにまごついている重雄である。
この上二週間後に娘を嫁に出さねばならぬとは。

思わず胸の内で合掌する直樹であった。



重雄は絶望していた。

二週間後に、直樹と琴子の結婚式が執り行われるという。
結婚するということは、夫婦になるということだ。
琴子に合わせろとか、しばらく手を出すなとか、もうそんな話じゃなくなっている。

呆然としたままホームパーティーをやり過ごし、お開きになってすぐ、重雄は直樹に声をかけた。
他の家族に聞かれないよう、暗い廊下まで彼を連れ出す。

「直樹くん、奥さんの計画にのって、本当に再来週琴子と結婚しちまうつもりなのか」
「…ええ、まあ。この手の話は、うちの母に逆らっても無駄骨を折るだけですからね」
「じゃあ、俺との約束はどうなるんだよ」
「さすがに、結婚してしまったら、守ることなどできないでしょう」

落ち着き払った直樹に、重雄は地団駄を踏みたい気持ちになる。
何が不満で、何に怒っているのか、もう自分でもよく判らない。ただただ、ひらすら、イヤなのだ。
結婚も、生々しい男女のまぐわいも、それが絵に描いた餅であるうちは、重雄だって祝ってやれた。
けれども、それらが現実となる今、琴子を手放すことがこんなにも苦しい。

この苦しみをひとつも判っていないらしい直樹が、重雄にはひどく腹立たしかった。
琴子をさんざん蔑んで苦しめたのに、結局重雄の娘をかっさらっていく、この男がにくらしい。
重雄は右足をドンと踏み鳴らした。喰らえ、五十男の地団駄。

「じゃあ、直樹くん、今度こそ、これだけは約束してくれ!今日から結婚式まで、琴子には指一本触れるなよ。もちろんキスだってダメだ。おれは、清いままの琴子を連れて、バージンロードを歩きてぇんだ!」

重雄は元より、善良な男であった。
ゆえに、自分が直樹に滅茶苦茶を言っている自覚があった。
本来、成人した大人同士の付き合いに、親と言えどもあれこれ指図する権利などないのだ。

それでも重雄は、顎を逸らせて背の高い直樹を見据え、父親の威厳を胸に、一歩も譲らない覚悟で両足を踏ん張っていた。
対する直樹は、能面をちょっとだけ崩し、息をのんで重雄を見つめている。

威嚇する勢いでいるが、重雄はほんの少し涙目になっているかもしれなかった。
だけど怯むわけにはいかない。強気を押し通すしか道はない。
ここまできたら、もう、これはただの意地なのだ。男の沽券というやつだ。

重雄の大事なたからものを、21年間手塩にかけて慈しんだ手中の珠を、目の前の若い男がかすめ取ろうとしている。
重雄はそれに、ただ一矢報いてやりたいだけなのだ。

少しの沈黙の後、暗い廊下の片隅で対峙したまま、静かな声で直樹が言った。
「わかりました。約束します。おじさんに、琴子さんとの結婚を、ちゃんと許して貰えるように」
「…っ、たのむよっ」

最後まで虚勢を張りたかったが、重雄の語尾は震えていた。

直樹は解っていたのだ。重雄の苦しみも、葛藤も。
それを受け入れた上で、直樹なりの誠実さで、彼は重雄に応えようとしてくれている。

そのことに気づいた時、重雄は、胸の内に巣くっていた黒くドロドロしたものがすっかり晴れた心地がした。
赤子のように無防備な気持ちになって、何かに縋って、ただ、泣きたい。

労わるような直樹の視線に見送られ、足早に自室へと下がる。
そうして、妻の仏壇の前にたどり着いてから、声を殺して、重雄は泣いた。



◆◇◆◇◆◇◆



~epilogue~

二週間が過ぎた。
直樹は重雄との約束を果たし、琴子に指一本触れぬまま、結婚式までの日々を過ごした。

こういったことに、ちょうどいい塩梅など存在しない。
完全に断ち切るか、なしくずしに制御不能になるか、ふたつにひとつだ。

直樹はわざと仕事を詰め込むことで、琴子と二人きりになる機会を避けた。
式の準備や指輪の手配のために顔を合わせても、バタバタのスケジュールでは、甘い雰囲気を味わう隙もなかった。
正直、枷がなかったらヤバかったな、と思っているのは、直樹だけの秘密である。

結婚式当日に、初めてウエディングドレス姿の琴子を見た。
綺麗だった。さすがの直樹も胸がいっぱいになる。
バージンロードをエスコートする重雄の顔は、気の毒になるほど涙でぐっしょりとしていた。


二週間以上ぶりになる誓いのキスは、琴子から仕掛けられた。
ついに解禁されたのだ。
直樹と琴子は夫婦であり、直樹には夫として、正々堂々と妻である琴子に手を出す権利がある。

披露宴で予想外の心的ダメージをくらってしまい、初夜はハネムーンへと持ち越しになった。
清いままの新婚初日、大きなトランクを転がして、直樹と琴子は成田空港に向かった。

ふたりきりで行く初めての旅行に、琴子はテンション高くはしゃぎまくっている。
直樹はその隣で、新婚旅行中いかにしてやりまくるかを考えていた。

着いたらすぐに押し倒す。朝から晩までやってやる。服なんか着させてやらねー。

ひそかにフラストレーションを燻らせる直樹と、能天気にはしゃぎ続ける琴子を乗せて、機体は一路ホノルルへと発つ。
まさか新婚旅行の最終日まで満願成就しないだなんて、この時の直樹は、夢にも思っていなかった。



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2020/10/25

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