永い夢から醒めた入江くんのお話
創造神になる夢を見た。

その世界では、彼を縛るものは何もない。善も悪も、規律もない。
始めはあれこれと働いてみたけれど、いつしか自堕落に、妻とシーツに溺れて過ごすようになった。

そこは色とりどりの花が咲き誇る、庭園のような美しい場所だった。
清々しい風が吹き抜ける屋外で、夢の中の自分は、白昼堂々素っ裸になって無抵抗な妻に伸し掛かっていた。
こんな夢を見るなんて、おれも意外と下世話なんだな、と、可笑しく思う。

ぬかるんだ原始の海に矛を突き立てて、かき混ぜる。
じゅぶじゅぶと音を立て、ぬめる海面が泡をたてる様を眺めていると、気分が荒々しく高揚した。
ますます突いて、荒立てて、果てるまで。

それを何度も繰り返した。

どれだけの時が経ったのか。
いつのまにか身体を失い、意識だけが風に載って世界中を駆け抜けていた。

彼が創造した子どもたちは、世界に散って旅をしていた。開拓し、定住し、文明はせわしなく築かれては壊されていく。
子どもたちのいとなみを眺めていると、詐欺や窃盗、強奪、ときには殺人さえも垣間見えた。

なんだ。
おれが創造神になったところで、しょせんは今ある世界の焼き直しか。

自分が作れば楽園になる、とまでは思わなかったが、想像力の限界を見たようで鼻白む。
しょせん夢なのだから、少しくらいは理想郷に近づいてもいい気がしたのだ。

見守るまでもないな、と思う。
彼らは彼らで、やっていくだろう。
清濁を併せ呑んだ世界で、少しでも良い方へ向かおうと頑張っていくのだろう。
自分たちが現実の世界で、なんとかやっていこうと足掻いているのと同じように。

その場所から離れる決意をして意識を遠ざけると、視界はどんどん高みに上って行った。
人々が豆粒のようになり、街は小さな塊になり、地形が地図のように見える。
視界を覆った白い雲が晴れる頃には、蒼い星が全貌を顕わにしていた。

もっともっと、止まることなく上り続ける。

輝く蒼い球体は、隣接した惑星と連なって銀河を形成し、銀河はうごめく楕円となって細胞のようにひしめきあう。
細胞の塊は相似に広がり、万華鏡のように果てしなく展開されていく。

最終的に、それは一様に滑らかな黒い水面になった。
愛しいひとの瞳孔のようで、胸がぬくもるなつかしさがあった。



「入江くん、起きて」

目が覚めてすぐ、黒く濡れた瞳に焦点が合った。

「大丈夫?もうすぐ着くよ」

ぽかんと口を開け無防備に眠る娘を抱いた琴子が、隣のシートから身を乗り出して直樹を覗き込んでいる。
妻と、娘と、自分。ここは貸し切り状態の路線バスの中。今は九州の実家に向かう途中。
状況を把握して、ようやく意識が現実に収束した。ほんの転寝のつもりで、直樹はずいぶん眠りこんでいたようだ。

「悪い」
軽く頭を振って、まっすぐに座り直す。
自分らしからぬ、ファンタジックで壮大な夢を見ていた気がする。
どんな内容だったか詳しく辿ってみようとしたが、車内放送に遮られた。
人工的な女性アナウンスによって次の停車が告げられ、琴子が降車ボタンを押した。

娘はこのまま琴子が抱いていると言うので、直樹がすべての荷物を持った。バスが停車してから、琴子を促し先に行かせる。シートに忘れ物がないことを確かめた後、直樹も続いて降車した。

田舎道のバス停に降り立ち、バスを見送る。
クマゼミが騒がしい。何処かからキジバトの鳴き声も聞こえる。空の高いところでは、翼を広げた黒い鳥が旋回していた。

周囲に広がる真夏の水田は、実りにはまだ早く青々とした葉が伸び繁っていた。それらが風にさやさやと撫でつけられていくさまは、まるで緑の海に起こるさざ波を見ているようだ。

バス停が建つ道路は二車線に満たない中途半端な幅で、中央のラインはおろか車道と歩道の区別さえなく、緑の海にぽっかりと浮かぶ桟橋みたいだ。そこから、さらに細く、軽自動車一台分ほどしかない道が分岐していて、鎮守の森を擁した集落につながっている。人間が大地に根差し、生活を営んでいる気配があった。

腕が触れ合う距離に琴子がいて、彼女の腕の中には彼らの娘がすやすやと眠っている。
かたわらを清々しい風が吹き抜けた。

楽園は、ここにあったのか。

頭の中のどこかで、知らない自分がつぶやいた。
表層意識にのぼらない、小さな小さな声だったので、直樹はそれに気づかなかった。

「ずいぶん、遠くまで来たな」

そう言って、空を振り仰いだときには、夢の余韻はあとかたもなく霧散していた。

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2020/11/12

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