旅立つ松本姉と、居残る入江くんのお話
ピンクのバラをたわわに咲かせた緑のアーチをくぐりぬけ、松本裕子は空を見上げた。
ひんやりとした水色を背景に、刷毛で一塗りしたような、淡く白い雲が浮かんでいる。清々しく清浄な風が吹いていて、咲き誇る色とりどりのバラたちが重たげな花冠を揺らしていた。庭園には花々の甘い香りが満ちている。

植物に支配され、人間が存在しない静かな世界では、彼女が転がすトランクケースのゴロゴロという音だけがよく響いていた。セメント敷きの歩道の先には、ガラス製の円柱がそびえている。

かつて文明が栄えていた頃、こういうガラス製の円柱に水を満たした装置があって、その中に海の生物を展示している施設があった。
ほの暗い中、青い光に浮かび上がる装置。
揺れる水面が綾なす影。
可憐な尾びれをそよがせながら優雅に泳ぐ魚たち。

ほんの刹那、遠い昔に見た映像が浮かび上がり、一瞬の後に霧散していった。あまりにも永く時が隔たったせいか、記憶はすっかり輪郭を失っている。
松本裕子は、思い出の喪失にため息を吐いた。

ガラスの円柱のそばには、白衣を着た男が佇んでいた。
今日は彼に会いに来たのだ。

「久しぶり、入江くん」
「よお、松本か」

声をかけると、入江直樹が振り向いた。
突然の来訪に驚きもせず、相変わらず淡々としている。

「元気にしていた?」
「それなりに。松本は、これから出かけるのか?」
入江直樹はそう言って、松本裕子の傍らの大きなトランクケースに視線を投げた。

「そう、この後すぐにここを発たなきゃいけないの。しばらく会えなくなるから、その前に顔を見ておこうと思って」
「律儀だな。もう、ここに来るやつはお前くらいだよ」

彼が苦笑して言うことを、松本裕子は意外に思う。
「そうなの?須藤さんや綾子や…琴子さんの、彼…あれ?…なんて名前だっけ?ほら」
「金之助?」
「そう、彼。彼なんか、絶対ここに寄りそうじゃない。ほんとに誰も来てないの?」
「ああ。もう、誰も来なくなったな」

「そうなの」

呆然として、松本裕子は入江直樹の孤独を思いやった。
「それは、入江くん、さみしいでしょう。あたし、他のみんなに会うことがあったら、顔を見せるように声をかけておくわ」
「いや、いいよ。あれから時間も経ってるし、忘れるほうが自然だよ。松本だって、無理しなくていい」
穏やかなまなざしで松本裕子を眺めた後、入江直樹は青い空を仰ぐように円柱を見上げた。
「それに、おれには琴子がいるし」

彼に倣って、円柱を見上げる。
透明度の高いガラスの向こうに、入江琴子が眠っている。
ひざ下にかかる白い術着のような簡素な服を着て、うつむきがちに立ち、少し腕を広げた姿は、滑空する白い鳥に似ている。髪も肌も先端までみずみずしく、瑕ひとつない。けれど、入江琴子はずっとこうして眠ったままだ。このまどろみの庭園で、彼女の夫に守られた、ガラスの円柱に閉じ込められて。

「きれいね、琴子さん」
「ああ」
「まだ、目覚めないの?」

松本裕子の問いかけに、彼は左手を振って空間にディスプレイを出現させた。タッチパネルに触れるたび、彼らの目の前に青い光が飛び交った。

「ボディは、もうほとんど完成してんだ。あとは起動するだけなんだけど…そこから先が、なかなかね」
明滅する光の羅列を見せるように、入江直樹は肩を引いて言った。
「まだまだ試行錯誤が必要だよ」

彼が見せてくれるその青い光を眺めるも、それが文字なのか、図形なのか、松本裕子には判別ができなくなっていた。彼女がもうこの場所に属さないものになっているからだ。
一方の入江直樹は、これからもこの庭園で、彼の妻のために、変わらず再生の研究を続けてゆくのだろう。みんないなくなって、松本裕子もいなくなって、誰もこの場所を訪れなくなったとしても。

その時、松本裕子の中でかすかな記憶がひらめいた。一瞬のそれを、取り逃さないように捕まえる。
忘却の海から引き揚げた映像は、思い出そうと目を凝らすほどにピントがぼやけるようで、もどかしい。
あれは、たしか…。
「むかし…本当に、むかしのことだけど…」

「あたしとあなたで、映画を観たことがあったでしょう。吉祥寺だったかしら。あなたたちが結婚するよりも前のことよ」
「ああ。憶えている」
「そのとき、あなた、言ったのよ。映画の感想で。おれもあんな人造人間つくってみたいな、って」

その日の断片が次々とよみがえる。
映画を観て、お茶をして、買い物をして…。別れ際の記憶があやふやだけれど、確かにそういう一日があったのだ。

失われた世界。
生きていた頃の自分たち。

「あたしは、入江くんなら出来そうでこわいわ、って、言ったわ」
松本裕子は、うつろに見つめていた過去の映像から視線を外し、傍らの彼を振り仰いだ。

「ねえ、もしかして、あなたは琴子さんを造ろうとしているの?」

入江直樹は、その質問に答えなかった。

視線の先には、ガラスの円柱に守られた入江琴子が存在している。
それは記憶の中の妻と一分の違いもなく、完全なる入江琴子の姿をしていた。
今はまだ眠ったままで、起動することはないけれど、瞼の奥のキラキラした瞳も、入江くんと呼ぶ声も、いずれは搭載できるはずだと信じている。なぜなら、彼は一片たりとも妻のことを忘れていない。入江琴子の何もかもを、脳内であまねく再現できるのだから。

入江直樹が妻を見つめているうちに、日が沈み、また昇り、影は長く伸びたり短く縮んだりした。そうしている間に、かつて松本裕子が立っていた場所には誰もいなくなっていた。気配もなく、残像もなく、この庭園を訪ねる人はもういない。

誰も彼もが行ってしまったのだ。
それぞれのトランクケースと共に。

入江直樹が再び左手を振ると、空間にディスプレイが表示された。タッチパネルに触れて、青い光を操作する。
彼はこの場所にとどまって、今日も明日も、そうやって時を過ごすのだ。彼の妻の覚醒を待ちながら。

植物に支配され、人間が存在しない静かな世界。
吹き抜ける清浄な風。
咲き誇る色とりどりのバラたち。

花々の甘い香りが満ちる永遠の庭園には、直樹と琴子が、ふたりきり。
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2020/10/29

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