夜の底に迷い込んだ琴子ちゃんを迎えに行く入江くんのお話
引き金は、暴徒と化した団体による核兵器の乱用だった。
戦火はまたたく間に扇動され、燃え盛り、街と人々を焼き尽くした。

人間にはもはや存続の猶予を与える価値もなく、一掃するほか道はない。
そう神に見放されたかのようなスピードで、彼らは絶滅への階段を駆け上っていった。

そうして、いくつかの種を道連れに、あっけなく世界は滅亡した。



永い永い時が過ぎた。
大地を汚染した物質はゆっくりと崩壊し、水は土に濾過され、傷跡を覆うように植物が蔓延った。

直樹が気付いた時、そこは緑の王国だった。
太い幹を持つ大木が何本も伸び、空の高いところまでうっそうと葉を茂らせ、地上に湿った影を作っている。巨大な羊歯からは濃い緑の香りがし、露を含んだ苔が絨毯のように地面を覆っていた。

街も、建造物も、彼の記憶する何もかもがなくなっていて、すでに身体も失われている。
呆然とした思念だけが漂っているようだ。

琴子は何処だろう。彼の妻は、最期の瞬間まで彼と一緒にいたはずだ。直樹は琴子を探して、ふらふらとあたりをさまよった。自分と同じように容れ物を失くしたものたちが、想いだけをよすがに頼りなく漂っている。実態を持たないそれらはあまりにも儚く、中には風に煽られ消えてしまうものもいた。

琴子。
直樹は琴子を探し続けた。
琴子が直樹のそばを離れるなんてありえない。直樹は、彼の妻の想いの強さをよく知っている。自分がそばにいなくては、彼女は半狂乱になって混乱しているにちがいない。

ふらふらと、ふわふわと、永い時間をかけて直樹は森を漂った。暗い昏い坂道を下って、じめじめと重く湿った夜の底まで。その先に琴子が待っているような予感がして、さらに暗闇を進むと、ぼんやりと白く浮かび上がるものがある。そこには琴子が人形のように立ち尽くしていて、かたわらには暗闇に呑まれた人影が控えていた。

「琴子」
いつの間にか、直樹には呼びかける喉と口があった。驚いて見下ろすと、すっかり身体が戻っている。
あちこちに触れて確かめている直樹に応えたのは、暗闇に潜む人影だった。

奥方を、取り戻したいかい


男でも女でもない影が、声ではない手段で直樹に呼びかけている。

奥方を、連れて帰りたいかい


「連れて帰りたい」
簡潔に直樹は答えた。すると、琴子は一言も発することなく、人形のまま目を閉じて、しずしずと直樹の元に歩み寄ってきた。直樹は琴子の身体を受け止め、しっかりと手をつないだ。

奥方を、連れて帰っても良いが、これは抜け殻みたいなものだよ
あなたは、それでもいいのかい?


「構わない」
答えながら、直樹は人影に背を向けた。琴子と落ち合えたのなら、一刻も早くこの場所から脱出しなくてはならない。直樹は琴子の手を引いて、もと来た昏い坂道を戻っていく。

じっとりとした湿気を足元にまとわりつかせながら、濡れた道を踏みしめて進む。重くこもった空気に、気道が塞がれたように呼吸が苦しい。身体を得たことで、来た時よりも道のりに苦痛をおぼえているのだ。

容れ物だけあったって、どうしようもないだろう
そんなもの、すぐに朽ちるよ


「なんとかする。おれが絶対に朽ちさせない」
先に進んでいるにもかかわらず、影の呼びかけは遠ざかることなく、おどろおどろしさを増していた。
背中に琴子の気配を感じながら、ずんずんと歩を進める。落ち合ってから、彼女は一言も発声していない。呼吸音さえ聞こえない。けれど、つないだ冷たい手の感触が、そこにいるのは間違いなく琴子であると告げていた。かつて何度もつないだ手。最期の瞬間まで離さなかった、たいせつな片割れの手のひら。

戻ったって、もう誰もいないよ


「誰もいなくはない。おれと琴子がいる」

奥方は抜け殻で、あなたはひとりぼっちだよ


「琴子がいるならおれはひとりじゃない」

付きまとう声を相手に、問答を繰り返しながら、振り返ってはいけないと直樹は本能で悟っていた。
この声を振り切って、恐怖心を振り切って、光が射す地上まで。直樹は琴子を取り戻すために、彼女の手を引いてここを抜け出さなければならない。

たとえ身体を失っても、他のなにを失っても、琴子だけは手放せない。
琴子を取り戻すためなら、おれはなんだってしてやる。

それなら、あなたに託してみようか

このまま無事に引き返すことができたら、今度はあなたが、新しい世界をつくるといい



首のあたりにざわざわとした恐怖が絡みついている。冷たい琴子の手を強く握りしめ、振り返って確かめたい衝動を振り切るべく、前のめりになって先を急いだ。

暗い坂道をとうとうのぼり切ったとき、直樹はようやく振り返って彼の妻を存分に眺めた。
琴子はひざ下にかかる白い術着のような簡素な服を着て、うつむきがちに立ち、おとなしく目を閉じている。
直樹は、生えそろった琴子のまつ毛を見つめながら、彼女に顔を近づけた。唇に温かく触れるものがある。それは、この世界でふたりともが生きている証のぬくもりだった。

木漏れ日が注ぐ地上には、ひんやりと清浄な風が吹いている。腕の中には琴子がいる。
帰還を確信して、直樹はすっかり心が凪いでいるのを感じた。

唇を離しても、彼の琴子は目覚めない。
けれど直樹に不安はなく、この先何をすればいいか、おぼろげながら判っているような気がした。

今の直樹には、世界が一つ下の次元に見えた。夜の底にたどり着き、そこから戻ってきたことで、直樹の何かが変性したのかもしれない。数式を操るように、プログラミングに手を入れるように、今の直樹には思いのままこの世界に介入することができる。

そうだな。まずは、居場所をつくろう。
琴子が喜びそうな、色とりどりの花が咲き誇る庭がいい。
それから、琴子のための再生装置を。
彼女から欠けたなにかを補って、入江琴子を復元させるのだ。

あれこれと思いつくままに構想を広げると、ぼんやりとしたイメージが徐々にくっきりと像を結ぶ。
世界の再構築に取り掛かった直樹は、いつのまにか着慣れた白衣姿になっていた。

あたらしい世界の創世記。
直樹と琴子は、この場所でアダムとイブになる。
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2020/11/05

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